さんの前が空《あ》いてるばかりだった。南さんは顔をあげ、躊躇してる男に向って、愛想よく前方の席をすすめ、自分の小皿を引寄せ、やって来た女中に卓子を拭わせ、そして初対面の男に向って、馴々しく話しかけた。酒というやつはへんなもので、全くやめてしまおうと思う日と、やたらに飲んでやれと思う日とがあって、中途半端にいい加減に飲むという気は、決して起らないもんですなあ……、とそんなだしぬけな話なのである。すると、ジャケツの上に背広をひっかけてる相手の男は、日焼けした顔に善良そうな笑みを浮かべ、指の節々が太く爪先がささくれてる頑丈な手で、用心深く猪口《ちょこ》を口元に運びながら、煙草はやめたが、酒はなかなかやめられず、今日も女房に内緒でちょっとやってるんで、と変に淋しいことを云い出した。煙草をやめる時はハッカを用いた。もう八年になる――八年だ。酒はどうも身体にわるいが、工事請負の仕事の関係上、飲むことが多く、いくら飲んでも酔わないのが悪い癖で、多少中毒のきみらしい……。
 ――ほう、そうですか。中毒なんか構わないが、飲んでも酔わないというのは、そりゃあ実際悪い癖ですね。そんな悪い癖をもっていちゃあ、
前へ 次へ
全42ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング