らなければならない。屋根のついてる門扉から少し離れたところ、勝手口に通ずる潜戸のわきに、高さ半メートルばかりの石の角材が植っている。もと塵芥箱をよせかけてあったものだが、今は石だけ残って車除けみたいになっている。南さんはそれに上り、板塀の頂にとびのり、そこにさし出てる百日紅の幹につかまり、内庭にはいり、竹の袖垣をまわり。玄関の戸を押開き、中にはいって戸締りをし、洗面所で顔と手を洗い、そしてまず茶の間に落着くのである。それらの行為は、ただ習慣と本能とに依るもので、如何に泥酔していても一分の狂いもなかった。
その夜も、そこまでは平素の通りだったが、用意されてる番茶を二三杯飲んでから、南さんは両腕を組んで考えこんだ。その顔は酒気も血色も引いて、冷たくしいんと蒼ざめている。眼は宙に据って動かない。それからふいに、皮肉な微笑を浮かべ、立上って押入から一枚の白紙を取り出し、それを餉台の上に拡げ、右の掌を平らに、白紙の上二三センチのところに差出して、じっと心意を凝らしてるようだった。手はかすかに震えるが、下の白紙は微動だにしない。暫くすると、彼は手を引込めて、ほーっと息をつく。また白紙を見つめて、
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