。然し実際、正夫は時々、身体のどこかに自分で知らない掻き傷が出来た。晩の六時をうっかりしてたのである。そんなことも、母が亡くなって、誰もいわなくなると、もう起らなくなってしまった。
「そんなんだって、どつちだっていいじゃないか。」
 チビは黙って正夫の顔を見ていた。
「どっちかにきめなくったっていいだろう。」
「そうだよ。」とチビはいった。
「じゃあなんだい。」
「それでいいんだよ。」
 二人とも黙ってしまった。暫くしてチビは、ふと思い出したようにいった。
「君のお父さんは、それを、どっちかにきめたかったんだ。いや、不思議なことがあるようにって、望んでいたのかな。もう少し調子が狂っていたんだろう。いつか、夜中のことだったが……。」

 夜中の二時頃だったろうか、南さんは前後不覚に酔いながらも、自動車の運転手に道筋を指示しつつ、自宅の前に辿りついた。以前は、山根さんが起きていて、姉とも妻ともつかない態度で何かと面倒をみてやったものだが、いろいろなことがあってからそれもなくなった。十二時になると彼女は寝てしまうし、正夫も既に眠っており、女中も寝てるのである。南さんは板塀をのりこして家にはい
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