る。棒のようにつっ立って、頭をこまかく震わせて、ぎらぎらした目付で、室の中をじっと見廻している。だが本当は何も見ていないで、視線は宙に迷ってるのだ。その近くまで行って、院長は初めて気がついた。ぎょっとして立止った。婆さんは動こうともしない。ただならぬ気配《けはい》になった。幸にも、医員のうちに、婆さんを見覚えてる者がいた。それから騒ぎで、ただぼんやりしてる婆さんを、いろいろ宥《なだ》めすかしたり、道理を説いてきかしたり、しまいに看護婦をつけて送り届けた。
 家の者たちは始末に困った。時々気がへんになるというだけで、狂人ときまったわけじゃない。すると気の利いた医者がいて、婆さんの室に、亡くなった娘の形見の着物を一枚、衣紋竹にかけて吊さした。ただぶら下ってるだけの着物だが、効果があった。それを見て、婆さんはおとなしくなった。それから寝ついた。四五日してぽっくり死んだ。吊された着物に息をとめられたようなものだ。然し静かな死に方だった。笊の上の鮒が、口をぱくっぱくっとやるように、最後に大きく口を二三度動かして、喉がぐるっと鳴って、それきりだった。
「僕はそれを見たんだよ。」とチビはいった。
 
前へ 次へ
全42ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング