生活のうちに、掘り下げてみれば、どんな幸福が隠れてるか分ったものではない。
だが、俺は……。いいかい、この「俺は」がここでは大切なんだ。前に云ったろう、第二の父や母を空想したり感じたりする僕は……俺は……なんだよ。
その俺は、兄のような家庭がまた一つ生れようとしてるのを、お前の微笑のうちに見て取った。浜地は兄と相通ずる性格なんだ。彼は毎日勤勉に学校へ出かけるだろう。お前は忠実に家庭を守るだろう。そして、同じような日々のうちから、僅かな月給の余蓄と赤ん坊……。
もう云うのを止そう。お前の心に暗い影を投げてはいけないから。
で兎に角、本当のところを云えば、浜地とお前との結婚に、僕は賛成でも不賛成でもなかったまでだ。もっとどうにかした生き方はないものかと、そうお前のために希望しながらも、また一方から云えば、浜地との結婚は最も安全な途かも知れないとも思った。
が俺は……。いいかね、また俺は……なんだ。俺はお前を自分と同じ世界のものに、いつまでもしておきたかった。せめてお前だけは、拘束のない広々とした境地に置きたかった。それなのに、なぜ浜地と愛し合うようなことをしたんだ。つまらない。結婚は一種の束縛だ。……とそんな風に僕は感じて、それでもやはり憚られて、卑怯な真似をして自らごまかしていた。
その時、ほら、裏口をことこと誰か叩くような音がしたろう。僕はなぜだかぞーっとして竦んでしまった。
「え。」
声には出さないがそういった呼気で、母は半ば耳を傾け半ば僕の顔色を窺った。
「なあに……どうしたの。」
平気な声で、お前は不思議そうに僕と母との顔を見比べている。――幸福を夢みてる者は恐れは感じないそうだ。
「何でもないんだろう、犬か猫かなんだろう。」
そう云ったのが自分でも何だか変で、僕は火鉢の縁にかじりついた。
「おう寒い。」
「そう。褞袍《どてら》をあげましょうか。」
「いえ……なに……。」
「じゃあ、何ですね、お前はまた、お酒でもほしいんでしょう。」
「いいえ、今日は……。僕が酒を飲むと、一家の平和を害する、そう悟っちゃったから……。」
「そんな、皮肉を云うものがありますかね。珍らしく今日はいらないと云うかと思うと、すぐお前はそれだからね。」
母の眼は、駄々っ子でも見るような眼付だった。そういう母を僕は好きなんだ。それを、よく知ってる筈のお前は、僕に向って意見めいたことを云ったね。
「兄さんも、お酒が好きなら好きでいいけれど、外で飲むのはお止しなさいよ。家でならいくら飲んだって……誰も何とも云やしないわ。だから早く……。」
「何が……。」
「早くどうにか……。」
「早く……何が早くなんだい。」
「どうにかして……。ねえ、お母さん。」
母がにっこり首肯いたのはよかった。僕はふふんといった気持で煙草を吹かした。そしてお前を追求するのは止めた。あの場合お前の口から、早く結婚でもせよとはっきり云わせることは、余り思いやりのない仕打なんだからね。お前と母とが、影で僕のことをどんな風に話し合ったか、それは僕の知ったことじゃない。
だが、実際、いやに寒い静かな晩だったね。僕は胸がむずむずしてくるのを、しいて蝸牛《かたつむり》のように自分の殼の中だけに引込んでいたかった。そしてふと思いついて、炬燵を拵えようと云い出した。母とお前が取合わないのを、むりに押し切って炬燵を拵えさした。それから、果物を買って来て貰って、お初は父の仏壇へなどと云って笑われた。だが、馬鹿な、誰が仏様なんかを信ずるものか。そして炬燵の中がぽかぽかしてくると、とうとうやはり、ビールに※[#「魚+昜」、488−下−12]さ。お影でつね[#「つね」に傍点]やが一番忙しい目をみた。
そうして、炬燵の中でビールを飲みながら、取留めもない話をしながら、僕はむりに涙を押え止めていた。何故ともなく、すぐにも泣き出しそうな気持だった。だが、心の中では、別なことを考えていたんだ。こんなちっぽけな家庭なんか吹き飛んじまえ、こんな惨めな幸福なんか、こんな古ぼけた天井なんか、みんな吹き飛んじまえ、青々とした大空が現われてこい……とね。それからまた、お前に向って、俺は今夜お前の通夜をしてやるんだ……とね。
お前は呆れ返るだろう。僕だって自分に呆れてる。だからこう大急ぎに話を進めているんだ。
ただ、一つ、僕はビールのコップを差上げながら云った。
「ビールの泡と接吻とは同じようなものさ。唇に残ったかと思えばすぐに消えてしまう。」
するとお前は、恥ずかしがる代りに怒り出したね。母も険しい眼付をした。
「なあに、僕は子供のことを云ってるんだよ。子供は誰にだって接吻させる。大人にそれが出来ないのは、心が汚れてるからさ。」
「じゃあ兄さんは子供なのね。芸者にだって誰にだって接吻させるんだから。」
「そうさ、心はいつまでも子供、それを置いてきぼりにして、身体だけが大人になったものだから、弱ってるんだ。ああつまらない。実につまらない。」
わざと大きく溜息をしてみせた合間に、母は真顔で云った。
「もうお止しなさい、そんな話は。」
僕ははっとして、真顔になった。がお前はまだ怒っていたね……仲直りのしるしに僕と握手をして、※[#「魚+昜」、489−上−14]をしゃぶって、それからあの、禿頭の子供の話かなんかで笑い出すまでは。
敏子
その一晩を、僕は台なしにしてしまったような気がするのだ。ああいう事情の下にあったああいう静かな晩は、そう滅多にあるものじゃない。それを僕は何という気持で過してしまったのだろう。またお前だって……。
僕と一緒に海で飛びはねたお前じゃないか。音楽を聴きながら一緒に涙ぐんだお前じゃないか。僕の詩をいつもさんざんやっつけたお前じゃないか。母には話せないような芸者の話を僕がするのを、口を尖らして聞いた後で、だから兄さんは汚らわしいと云いながら晴々と笑ってたお前じゃないか。もっと卒直にあの晩を過せなかったのかね……。そりゃあ僕も、卒直じゃなかった。だけど本当は、お前と一緒に、朗かに笑いたかったし、しみじみと泣きたかったのだ。
考えてみると、僕はあの晩を毒したばかりではなく、家の中の空気全体をも毒してたかも知れないし、お前の心をも毒してたかも知れない。僕は何という毒虫なんだ。
然し、それもこれも、何の罪であるかは、ただ知る者ぞ知るさ。加藤さんへ向って、母が愈々承諾の返事をすることになった時、僕はやっと重荷を下したような気がした。変梃な心理だ。そして、ほっと息がつけるその気持から、一寸旅をした。
少し急な書き物があるから旅をする、とそう僕は母にもお前にも云った。体裁にだけ原稿用紙を持って出た。が仕事なんかありゃあしなかったんだ。……そして、三日目に僕は帰って来た。
その間に、僕が何をしてきたかと思うかね。これからそれを聞かしてあげよう。
家を出ると、あの通り、晴れやかな小春日和だったろう。僕はその大空を仰いで、いいなあ……と心に叫んだものだ。そして、停車場へ行くのを止めて、照代の家へ行ってみようと思った。
お前は恋するなら恋するがいい、ちっぽけな家庭を構えたけりゃあ構えるがいい。だがこの俺は、そんななかに巻きこまれてたまるものか。自由なそして心は潔白な彷徨を続けてみせるぞ。日の光が美しく輝いてるじゃないか。
まあ云わばそんな風な気持から、籠を出た小鳥のように勝手な真似がしてみたくなった。で友人のところに原稿用紙を捨てて、少しぶらついて時間をつぶして、それから照代の家へ行ってみた。
敏子
僕が照代の家にまで遊びに行くからといって、旦那気取りで澄しこんでるとか、或は二人の間が――心のつながりが――おかしいとか、そんなことを考えちゃいけない。僕はただ、お座敷で彼女に逢うよりも、彼女の家に五分間も黙って坐りこんでる方がよっぽど面白いんだ。お互に素面なんだからね。何でもない一寸したことから、そんな風になってしまったんだ。
ところが、その日は大変な目に逢っちゃった。
もう電気がきてたから、五時頃かと思うが照代はまだ髪を結いかけてるところだった。肩に白布をあててその上に梳きかけの髪を乱したまま、入口まで立ってきた。
「まあー、」それから一寸睥む真似をして、「今日を幾日だと思ってるの。」
「幾日……何のことだい、そいつあ。」
「あら、もう忘れたの。そら……稲毛……。」
「ああ、そんなこともあったっけ。なるほど、君は頭がいいよ、物を忘れない。」
「あれだ。」
というのは、実は何かの話のついでに、こんどの日曜に――日曜が笑わせるよ――日曜あたりに、稲毛へ遊びに行こうと、そんなでたらめな約束をしていた。その日曜をもう十日余りも通りこしていた。
室へ通って、彼女が改めて挨拶するのに応じた時、隣りの室に寝てる女の顔が、開いた襖の間から、黒ずんだ畳と赤い布団とその白い襟との中に、仄白く浮出して見えた。
「どうしたんだい。」
「美代ちゃんよ。病気なの。」
見ると、美代子はすやすや眠ってるらしかった。裾の方で、ばあやさんが火鉢で何か煮立てていた。
「悪いのかい。」
「お午頃から急になんですけれど、大丈夫よ。……待ってて頂戴。今髪をあげてしまうから。」
長火鉢の前で、僕は煙草を吸い初めた。その煙草が一本終らないうちに、美代子は突然うーむと苦しみ初めた。照代は飛んでいった。
「仰向いちゃ駄目……つっ伏すのよ……そう……いいかい……。」
呻り声の間に痛い痛いと訴える美代子を、照代とばあやさんとは上からのしかかって、腰のあたりを力一杯押えつけた。
「ねえさん、注射を頼んでよ、後生だから……。おう痛い……痛いよう……。」
「我慢だよ、一寸の間なんだから……。注射はもういけないって、先生が仰言ったでしょう。」
痛みが少し鎮まると、美代子は金盥にしがみついていた。
「無理に吐こうとしちゃいけないよ。注射のせいだよ。何も出やしないんだから。」
そしてるうちに美代子は、もうぐったりして眼を閉じていた。
「蒟蒻を取り代えてみましょうか、煮立ってるから。」とばあやさんが云った。
「そう。いいでしょう、こんど起きた時で。」
そして照代はまた鏡台の前に戻ってきた。
梳手が髪を梳いてる間、お師匠さんは手焙で煙管をはたはたやっていた。
「苦しそうですねえ。」
「ええ、そりゃあ苦しいんですって。喇叭管がひきつけるから、腰と下腹がちぎれて取れそうだって云いますよ。お産の時と同じだそうですもの。」
「へえー、そうですかねえ。」
僕は一人で茶をいれて飲んでいた。
「それじゃあ、痙攣かい。」
「ええ。」
「では、唐辛子をはるといいんだよ。」
「あら、いやーね、そりゃあ胃痙攣のことよ。」
照代はそれでも学者だった。先生は蒟蒻で温めるように云ったけれど、氷で冷しきった方がいい、それも人によるんだけれど、などと云っていた。
僕はいい加減のところで立上りかけた。
「じゃあお大事に……。僕は帰るから。」
「いやよ。駄目……。待ってるのよ。」
ねえーと云った調子で、鏡の横から、出来るだけ大きく見開いた露わな眼で、彼女は僕の眼に見入ってきた。それに自然とうなずいて、僕はまた腰を据えた。
美代子の痙攣は度々起った。照代はその度に立っていった。僕はそこの長火鉢と箪笥との間に、メリンスの座布団を二枚並べて小さく寝そべった。ばあさんが掻巻《かいまき》を着せてくれた。そして、木目の飛出した天井板や、ごてごて飾り立てられた真赤に見える神棚や、お師匠さんの手に渡ってる照代の長い髪や、どこからかの電話や、美代子の痙攣や、赤っぽい電燈の光や、そんなものを断片的に意識しながら、出来るだけ縮こまってると、いつのまにかうとうとと眠ったのだった。
眼を覚すと、長火鉢の向うから、照代がにこにこ笑っていた。丸髷に結っていた。
「どう、似合って。」
僕はただ不思議な気持で見守った。
「いいのよ。今晩はどうせお座敷に出られやしないんだから。それで、気が変っちゃって、こんな風にしてみたの。」
艶やかな鬢をかしげて見せた時、
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