なんだ。
「いや、浜地も、今にそんな目に逢いそうな男ですぜ。それと云うのも、何だっけな、精神的に汚れてるから……ねえお母さん……。」
「止せよ。いい加減にしないか。」
食後の茶を飲みながら、煙草を吹かしていた兄は、本当に腹を立てたらしかった。
「止せと云うなあ、降参したしるしだな。へん、どーだい。」
「何だ、そのざまは。」
戦勝のしるしとして、なみなみとついだ杯を高く差上げ拍子に、手元が狂って膝にだらだらとこぼれた。その残りを一息に吸って、坐り直した。
「これで、証明がついたろう。」
「何の証明だ。」
「何の……ははあ、逃げ仕度か。卑怯だなあ。ほら、キリストが何とか云ったよ、女を見て心を動かす者は……ってな。ねえ、お母さん、お母さんは知ってるだろう。これを知らない者は……主ばかり……。」
いい気になったところを、兄からぱっと杯を叩き落された。
「何を。」
拳を固めて気張ってみたが、立てかけた膝がよろよろっとした。そこへ一つ、手首をぴしゃりとやられて、へたばりかけたとたんに、箸を取って投げつけてやった。
「馬鹿、馬鹿……やーいだ。」
ねじ伏せられたのが、変に手柔かなので、ひょいとはね起きてみると、母から押えられてるのだった。
「何をするんです。お前さんは……兄さんに向って……。さあお謝りなさい。謝らないと、わたしが承知しませんよ。酔払って、ここをどこだと思うんです。」
母の言葉はやさしく僕の耳に響いた。僕は本当に酔払った気がした。母の前で酔払ったのは全く久しぶりなんだ。
「ええ、謝るよ、いくらだって。僕は本当にお母さんが好きだ。お母さんくらいいい人は……好きな人は、天下広しと雖もか……ねえお母さん。」
ふらりふらりと舟をでもこぐような調子に、僕はお辞儀をしてみせた。そのためか、頭の酔がかき廻されて、意識がぼんやりしていった。
それから僕は、餉台のふちにしがみつきながら、兄のしつっこい悪罵と叱責とを、下手な音楽をでも聞くような風に聞いていた。その太い言葉を、母の細い嘆声が伴奏していた。と、伴奏の方が突然はっきり浮き出してきた。
「ほんとに、この子は誰に似たんでしょう。」
僕はふっと頭を挙げた。
「そりゃあ、分ってるさ。父親に似たんだ。僕の知らない、誰も知らない、天の父親にか……ねえお母さん。」
その酔った時の口癖の、ねえお母さんがいけなかったらしい。突然、母の顔が馬鹿に大きくなってつめ寄ってきた。僕はぞっとして、そこにつっ伏して泣き出した……いや、本当に泣いたかどうか覚えていないが、泣き出した気持だった。何だかもうすっかりぼやけてしまっていた。そして結局、むちゃくちゃに失言を釈明して、それから、床の中に逐いやられたものらしい。
敏子
こんな話をすると、お前は妙な疑を起すかも知れない。然し僕は何も、自分だけがお前達と違った父親の子であるなどと、そんな馬鹿げた空想を逞うしたことはないのだ。亡くなった父に対しても、それから殊には母に対しても、そんな冒涜な考えは毛頭懐いてやしない。亡父や兄に似寄りの点を自分の顔貌《かおかたち》の中に見出して、どうかすると悲観することはあってもね……。
ただ僕は、心の上で、魂の上で、父や兄とは違った種族のような気がするのだ。何だかこう、天涯の孤客といったような気持なんだ。非常に自由で晴々としているが、また淋しい。そんな時僕は、自分の魂の父親、そういったものを想像する。空なものかも知れないけれど、またすぐどこかその辺に、自然の中に、空低くに、はっきり存在してるようにも思われる。そして僕はその父に対して、強い愛を感じている。
お前が知ってる通り、僕は母を大変愛している。ところが、どうかした心の持ちようで、もっと漠然とした然しもっと深い、第二の母の存在を想う時さえある。だから、父が亡くなって長年になる今、第二の父の存在を想うのも不思議ではないのだ。何という不幸な子だ。これで母もなくなって、幾年かたったならば、僕はもう生みの父母のことは忘れてしまって、別な広い父性や母性をばかり、自分の魂の父や母をばかり、想像したり思慕したりすることだろう。
然しまた、そのために、僕はどれだけ自由に伸び伸びと生きてゆけることか。
然しこんなことは、お前にはよく分るまいから、これ以上云うのは止そう。だが、そんな気持だから生活が放埓になるのだと云わるれば、僕は一言もない。但し自分では放埓だとも思ってやしないがね。
それからもう一つ、僕はお前に詫びなければならないことがある。お前は、僕が故意に浜地を誹謗したと思って、嫌な気がするだろう。それはもっともだ。僕の云い方が悪かったのだ。僕はあんな云い方をして、浜地を傷つけるつもりでは少しもなかった。男の心って、それほど潔白なものではないということを、兄に向って云いたかったのだ。僕が時々遊里に足を向けるからと云って、僕をさも汚れた者のように取扱い、風呂にも先に入れないで、而も冗談にもせよ口に出してまでそれを云う、そうした兄に対する反感から、たとえ身体は汚れていようとも、心は潔白だということを、間接に主張して見るつもりだった。それが、反感や酒の酔が手伝って、妙な風にこじれてしまった。浜地のことなんか実はどうでもよかったのだ。
だから、翌朝になって、母から浜地のことだけを切り離して尋ねられると、僕は実際弱ってしまった。あれは兄をやっけるために浜地をだしに使ったんだとは、まさか云えないものだからね。
「わたしは、お前の昨夜の様子では、この話に反対だとしか思えませんよ。だからさ、反対なら反対でいいんですから、どういうところが不服なのか、はっきり云ってごらんなさいよ。」
母はいやに落付払っていた。僕は少々面倒くさくなった。
「じゃあ、きっぱり云いましょう。僕は反対じゃありません、賛成です。」
母は僕の顔をやはりじっと見ていた。
「それに違いなければ安心ですがね……。」そして母は一寸頬をゆるめた。「だけどよく考えてごらんなさい。この話にはお前が一番肝心な人なんですよ。浜地さんは親しいお友達、敏子は妹、その二人の一生のことですからね……。」
母は僕の立場を重く見ていてくれることは、その場合僕には却って有難迷惑だった。だから僕は、話を早く切り上げるために、少し余計な口を利く必要を感じた。
「一体その話はどの辺まで進んでるんです。」
「どの辺までって、ただ、加藤さんからそういう話があっただけなんですよ。そして、わたしも兄さんも、浜地さんならよかろうと思ってるんですがね……。」
「そして、敏子はどうなんです。」
「承知のようですよ。」
「浜地は。」
「勿論承知でしょうよ。浜地さんの家から加藤さんへお話があったらしいんですから。」
「それじゃ文句はないじゃありませんか。本人同士がよければ、何にも云うことはない。僕も賛成です。何でしょう、もう浜地と敏とは愛し合ってるんでしょうね。」
「ええ……。」
おや、と僕は思った。母は何か知ってるんだな、というより、何かあったんだな、そう僕は母の様子から感じた。変に言葉尻を濁して、僕の顔色を窺ってるのだ。僕は少しうっかりしてたかも知れない。然し、浜地は僕の親友であり、お前は僕の妹であるが、そのお前達二人の間を監視するほど、僕の頭は暇じゃなかった。僕はただお前達二人が仲のよいことだけを知って喜んでいた。或は愛し合うようなことになるかも知れないと、ふと思ってみたこともあるにはあるが、結婚なんてことは僕の考えの範囲外だった。
母の様子から一寸変な暗示を受けて、僕は俄に追求し初めた。敏子は本当に浜地を愛してるのか、浜地は本当に敏子を愛してるのか、そして二人の愛は深いものなのか、その証拠が何かあるか……。
母は自分が過でも犯したもののように、視線を落して低い声で云った。
「キスしたことがあるそうですよ。」
敏子
お前も馬鹿だね。それならそうと、なぜ早く僕に云わないんだ。勿論僕は何にも尋ねやしなかったし、お前から進んで話せもしなかったろうが、然し、母に打明けたくらいなら、僕にだってすぐ打明けていいじゃないか。お前は僕の平常を知りつくしてるから、僕に笑われるかも知れないと思ったろうが、いくら僕だって、処女の恋愛を否定しやしないさ。母がどんな風にお前を問いつめていったか、それを思うと嫌な気がする。――恥しい想像を許してくれよ。――だが、僕だって母を問いつめていった。汚らわしい好奇心の仕業なんだ。
然し、好奇心ばかりじゃなかった。
僕は、前夜のことは酒の上の冗談だと云い、縁談に賛成の旨を説いて、母を漸く安心さしたが、その後で非常に淋しくなった。長年一緒に育ってきて、幼時の親しみをまでそのまま持ち続けてる兄が、妹の婚約する折に感ずる一種の愛惜と寂寥、そういった気持はお前も認めてくれるだろうね。
だが、そればかりでもなかった。
僕が「幼き愛」という変な詩を書いて見せた時のことを、お前は覚えているだろう。あの時お前は僕の様子を不思議がったね。だがこれで分ったろう。僕は一体、詩を書くといつもお前に見せていた。
それは女の感受性に敬意を表するからだ、と云えば立派だが、実は自分の詩についての自信がなかったからさ。それだもの、「幼き愛」などというあんな成心あって拵えた詩なんか、何の価値もありゃしない。それをお前はほめてくれた。いつも僕の詩を無遠慮にやっつけるお前が、いい詩だと云ってほめてくれた。僕はお前の顔色や眼付を窺いながら、ははん……と思った。それから、なおも一度読み返して、考えてる風をしてると、お前はこう云ったね。
「兄さん、それは誰との思い出なの。」
「馬鹿な。」
僕は思わず口走って、それから詩の原稿を引裂いてしまった。
「あら。」
その時のお前の、喫驚した顔ったらなかったよ。だが瞬間に、お前の黒い睫毛は、眼の色に現われた感情を隠してしまった。
西洋の誰かが、こんな意味のことを云っている。――昔の野蛮人は、占領した都市に、処女性のない潔白な女を残していったが、吾が文明は、潔白さのない処女を拵え出した。
なぜこんな文句をここに引出してきたか、お前にはこじつけとしか思えないだろうが、まあ黙って先を聞いてくれよ。
その晩……全く静かな安らかな晩だったね。夕食後、母とお前と僕と三人で茶の間に集って、電燈の光のまわりに黙って坐ってたじゃないか。
「いやに静かな晩だなあ。」
余りしんみりしてきたので、僕は少し気がさして何気なく云ってみた。
すると、意外にも、母はほっと溜息をついた。が言葉はやさしかった。
「ええ、お前が真面目でさえいてくれれば、いつもこうなんですがねえ……。これからは少し落付いてくれなければ困りますよ。」
「落付きますとも、今夜からこの通りに……。」
その時お前は傍で微笑していたね。その幸福そうな微笑を見て、僕は……全く気まぐれなんだが……ユーゴーの詩を読んで聞かしてやった。ランプの光のまわりに一家団楽しているところや、妻や子が主人の帰りを待ちわびてるところや、楽しい夕食の光景や、そういうつつましやかな家庭の幸福をね。それから最後に、あのコペーの詩さ。主人は朝から晩まで板をけずってる、日曜日に金使いもしない、二人の子供は鉋屑の中で遊んでる、お上さんは家の入口で、貯金の胸算用をしながら編物をしてる、一家安隠で商売繁昌だ。そういう風に僕はごまかして読んでいったが、実は、あれは柩造りの詩なんだ。次の疫病流行を夢想して、収入を空想するところまであるんだ。皮肉じゃないか。
僕も皮肉だった。心とうらはらな芝居をうっていた。心では、兄の家庭……と云うより寧ろ、兄の家庭で代表されるそうした家庭のことを考えていた。主人は朝から夕方まで勤めに出て、こつこつ機械的に働いてくる。細君は赤ん坊を守りしながら、家の中に閉じ籠ってる。そして粗末な夕食の膳、疲れきった無言の宵、それから薄ら寒い睡眠。それが文字通りに十年一日の如く連続する。一生の間。そして最後に、僅かな貯金と死。
勿論そんなことは、一口には云えない。そのつつましやかな
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