不肖の兄
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)昨晩《ゆうべ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+昜」、488−下−12]
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 敏子
 なぜ泣くんだ。何も泣くことはありゃしない。嬉しいのか、悲しいのか……いや兎に角、こんな時に泣く奴があるものか。
 僕も悪かった。がそりゃあ、皆が云う通りの不肖の兄、そういう僕なんだから、おかしな理屈だが、まあ名前に免じて許してくれよ。
 僕は知らなかったんだ、お前と浜地との間を……あの翌朝まで。薄々は分ってたようにも後では思えるが、全く、翌朝初めて母から聞いてはっきり分ったのだった。
 可笑しな朝だったよ。
 さすがに僕だって、前夜のことがぼんやり気にかかって、ぼんやりしてるだけにちょっと弱らされた。それで、十一時頃まで寝床の中に愚図ついていて、起き上るとすぐに、酒を飲むと云い出してみた。
「え、お酒。」
 言葉と一緒に息をつめて、さも呆れ返ったように母が見つめてきたので、僕は一寸首をすくめたが、すぐに眉根をしかめてごまかしてやった。
「ええ。何だか頭痛がするようだから、少しでいいんです。一本……つね[#「つね」に傍点]や、」と僕は女中を呼んだ、「つね[#「つね」に傍点]や、大急ぎ、一本お燗をするんだよ。」
「まあ、お前はほんとに……。昨晩《ゆうべ》あれほど飲んでおいて、その上まだ飲むつもりなんですか。」
「だから、一寸、すこうし……変に頭が痛くって……本当ですよ。」
 そんなことが信じられるものですか、というような母の顔付だったが、それでも機嫌はさほど悪そうでもなかった。うまくいった、と僕は思った。
 ところが、朝食の膳に向って、一人でちびちび、苦い味を我慢して飲み初めると、母は飯櫃《おひつ》の横に控えて、じっと僕の方を見守ってきた。
「お前は一体、どういう気なんです。浜地さんと敏子との話に、賛成だなんて云っておきながら、昨晩はあんなに浜地さんのことを……それも、お前のお友達じゃありませんか。まるで酔払いの悪体みたいに……。そして今日はまた、お午近くまでも寝ていて、やっと起き上ったかと思えば、またお酒……。家は茶屋小屋じゃありませんよ。それとも、酒の上でなければ云えないような、何か不満なことがあるなら、はっきり云ってごらんなさい。浜地さんのことについて、何か腑に落ちないことがあったら……。今のうちなら、どうにでもなるんですから……。そりゃあ浜地さんのことはお前が一番よく知ってるのだから、はっきり理由の立つことなら、わたし達も無理に話を進めようとするのではありませんよ。だけど、昨晩のような、嘘だか本当だか分らない、まるで酔払いの寝言みたいんじゃあ、取り上げるわけにはいきませんからね。」
 そんな風に云われると、僕はもう参ってしまった。母の気持は変に真剣に動いていた。初め僕は、兄との喧嘩の方ばかりを気にしていたが、母はそんなことはけろりと忘れたかのように、浜地のことばかりを、真面目に考えてるらしかった。
 僕は頭をこつこつ叩きながら云った。
「酔払ってたんですよ、昨晩は……。何だかでたらめに饒舌ってるうちになお酔払ってきて……。」そこで僕はちゃんと坐り直した。「いえ、賛成です。浜地と敏子との話には大賛成ですよ。」
「だって、お前は昨晩、何と云いました。」
「さあ、何といったか……だがもういいんです。僕は良縁だと思っています。」
 そうした僕の云い方が、母をなお不安にならしたらしい。母は何かを見窮めようとするような眼付で、僕の顔をなおまじまじと見入ってきた。
 そのため、僕は碌に酒も喉に通らなかった。

 敏子
 僕はお前と浜地との結婚に反対じゃなかった。どちらかと云えば賛成の方だった。ひどく冷淡な云い方だけれど、それ以上は僕には云えない。
 それをどうして僕があの晩、浜地の悪口を云い出したかと云えば、実は兄に対する憤懣からだった。
 お前も知ってる通り、僕は兄を余り好かない。兄も僕を好かないらしい。僕達二人は性情や嗜好まで随分違っている。
 その二人が、遇然一緒に家で飯を食うことになった。兄が結婚して別居してからは、そういうことが稀だったので、僕は母に御馳走さしてやった。というのは口実で、久しぶりに家で酔ってもみたかったからさ。
 そして初のうちはうまくいった。ところが、次第に、お前が静子さんと出かけた後のことだが、僕の気持は妙に苛らついてきた。
 兄はだいぶ辛棒して僕の相手をしてたらしかったが、三四本目の銚子から、先に飯を食い初めた。その時話は自然に、お前と浜地との結婚問題に落ちていった。
「だがお母さん、」と兄は笑いながら云ったものだ、「浜地君もこんな酒飲の親友を持ってるようじゃあ、余り信用もおけませんね。」
「でもね、」と母も笑いながら云った、「こんなお友達があってもしっかりしてるところは、尚更豪いじゃありませんか。」
 そういう会話を僕は聞き流して、一人で杯を重ねていた。母が吟味してるだけに家の酒はうまかった。酔心地がよかった。そしてつい不調法にも、小唄を口ずさみかけた。だって、いい気持になったんだから仕方がないじゃないか。
 それを兄が聞き咎めたのが初まりで、また例の廻りくどい意見になってきた。が僕は知らん顔をしてやった。それがまた兄の気持を害したらしい。
「つまらないものを二つ三つ書きだして、それで芸術家だと納まり返って、ぐうたらな日を送って、羨ましい身分だね。」
「羨ましけりゃあ、あんなちっぽけな会社なんか止しちゃって、兄さんも芸術家になったら……。」
 兄も少し酔っていた。が僕もだいぶ酔っていた。
「こないだ、お前が書いたものを読まされて、実に恥しい思いをしたよ。そら、何とかいう題の、淫売婦かなんか出てくる小説さ。僕の会社に、あの雑誌を持ってる男がいて、あなたの弟さんだそうですが実に上手だ、とそう云って僕に読ませるんだ。読んでみて僕は恥しくて、真赤になった。下らないじゃないか。あんなものはもう書くなよ。もっと高尚な、思想的に深みのある、立派なものは出来ないのかね。だから云わないことじゃない、薄汚い女を相手に酒ばかり飲んでるようじゃあ、結局駄目にきまってる。芸術家になるつもりならそのように、先ず品行から……その、生活から立て直さなくちゃいけない。」
 兄は食意地が張っていた。いい加減酔ってるくせに、皿のものをみな平らげ、鍋のものを盛につっつき、そして四五杯も飯を食った。その下歯の、犬歯の前に一本、黒い齲歯《むしば》があった。歯医者にでもかかったらよさそうなものを、どういうのか、小さくいじけた黒いままに、いつまでも放ってあった。それが、物を食う拍子に、小言を云う拍子に、ちょいちょい覗き出して、僕の気持にさわってきた。
「実際お前のような者には、浜地君は友人として過ぎ者だ。」
「そうかなあ、僕はまた、浜地には僕が過ぎ者だと思っていたんだが……。」
「なにを自惚れてるんだ。」
「じゃあ浜地は僕よりどこが優れてるんだろう。」
「優れてるさ、人格が……。お前みたいに汚れてやしない。」
「汚れてないって……笑わせるなあ。兄さんには見えないんだ。これでも、精神的には僕の方が汚れてやしないぞ。」
 僕の云い方が悪かったか知れないが、それを兄は取り上げて、二三度云い合ってるうちに、友人を誣いるのは怪しからん、誣いるのでなければ証明してみろ、と嵩にかかってつっ込んできた。その時の兄の高慢な顔が、黒い齲歯や図太い食慾と一緒に、おかしな云い方だけれど、それが自分の兄であるから猶更、僕は癪に障ってきた。
「そりゃあ、証明しろというなら、してもみせるが、どうせ兄さんには分りゃしないよ。お母さんになら分るかな。ねえ、お母さん、分る……分るんでしょう。」
 杯を手にして、お臀でくるりと向き直ると、母は苦々しげに笑っていた。僕は愉快だった。
「ねえお母さん、素裸になってみりゃあ、誰だって清浄な者あいやあしない。例えば浜地だって、あんなに君子然と澄し込んでるが、一皮剥いでみりゃあ、ねえお母さん……。」
 母がもじもじしてるのを見て、僕は饒舌り散らすのが面白くなった。僕は母が好きなんだ。
 そこで僕はこういう話をした。
 或る時彼が、夕食後散歩に出た。薄暗い裏通りを歩いてると、夏のことで、向うの二階の、窓に簾をかけた室の中が、電燈の光に透して見える。その窓際の、机かなんかに、二人の若い女が坐って、せっせと書き物をしていた。往来から見えるのは、肩から上の横顔ばかりだった。それが却って風情だった。彼は何気ない風をして、そこの通りを幾度も往き来した。散歩の帰りにもまた通って見た。
 それから、翌日も、そのまた翌日も、彼はその辺を歩き廻った。簾をかけた二階の窓の中には、いつも二人の女が、せっせと書き物をしていた。何を書いてるのか、往来からは分らなかった。家も相当に立派で、素人下宿とも見えなかった。
 そして彼には、夜の散歩が一つの楽しみとなった。窓の女の髪形から横顔の恰好を、すっかり覚え込んだ。さほど綺麗じゃないが、現代式の理知的な、女学生とも職業婦人ともつかない様子だった。いろんな空想が彼の頭に描かれた。
 それが可なりの間続いた。そして、十月の初めに暴風雨が襲った。その暴風雨の後、彼女達の窓には、簾が取払われて障子が閉切られた。障子にはやはり明々と電燈の光がさしていたが、彼女達の横顔はもう見られなくなった。それで彼も、その薄暗い通りの散歩を止してしまった。
「どうです、」と僕は云った、「それでも彼は精神的に汚れていませんかね。」
 母は腑に落ちないような顔付をした。
「下らない。」と兄が横合から口を出した。「お前の小説と同じだ。馬鹿げた作り話だ。」
「それじゃあ、ねえお母さん、こんなのはどうです。」
 或る時彼は寄席に行った。落語の間に娘手踊があった。まずい顔に白粉をぬりたくった娘達が、ぱっとした派手な着物を着て、真赤な長襦袢の裾をちらつかせながら、舞台一杯にもつれ合った。彼は喫驚したようにそれを見ていたが、後でこう云った、「あんなのはつまらない。第一下劣でいかんよ。」「どうです、」と僕は母に云った、「それでも彼は……その精神的に……ねえお母さん。」
「そりゃあね、お前さんと違って、浜地さんには、娘手踊なんか面白くないでしょうよ。」
 意味がよく母に通じないのが、僕には却って愉快だった。
「なるほどな……お母さんは善良だ。それじゃあ、もっと面白い話がありますぜ。……だが、こう冷えてしまっちゃあ……。」
 僕は銚子を熱くして貰いながら、また話し出したものだ。或る時彼は浅草に活動写真を見に行った。金曜日の替り目で、館内はぎっしり込んでいた。その時、彼の隣に、美しく着飾った令嬢風の娘がいた。それが、変に彼の方へ身を寄せてくる。そして写真の代り目になると、プログラムを失くしたから借してくれと云って、それをきっかけに、何かと小声で耳元にちょいちょい話しかけてくる。彼は例の内気さから、初めは用心していたが、次第に引込まれて、一寸手を触れ合うようになった。それに自分で気がついた時は、もう終演際《はねぎわ》だった。さすがに彼も気味悪くなって、先に出てしまおうとした。すると、相手の令嬢も後からついて来た。そして何とはなしに、二人で連れ立って、あの池の縁から観音堂の方へぬけようとすると、そこの暗がりから、三人の不良少年が飛び出して来て、いきなり短刀をつきつけた。俺達が預かってる大事な令嬢を、何で誘惑しようとするんだと、声は低いが図太く脅かしつける。女は平気で笑っていた。彼はもう一縮みになってしまった。
「そうして、」と僕は云った、「まあ何ですね、有り金そっくり巻き上げられるか、叩きのめされるか、傷をつけられるか、何れただではすまない。」
「まあー、浜地さんが、そんな目にお逢いなすったんですか。」
 だが、それは実は、浜地の話じゃなかった。僕が或る不良少年から聞いた話
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