僕は急に左手を打振ってどたんどたんとやった。
「痛い……おう痛い……。」
「しびれ。まあ大袈裟に、美代ちゃんより辛棒がないのね。」
 彼女が笑ったので、いやその拍子に気付いたのだが、隣の室から、皆が僕の方を見ていた。見馴れない丸髷の年増と、お座敷着をきた照次と、それから美代子までが、ぽーっと上気した細面の顔を枕につけて、無心の眼付でこちらを見ていた。そして皆一度に、いらっしゃいと挨拶したような風だった。
 僕はすっかりてれてしまって、坐り直して眼をこすった。それから火鉢越しに乗り出して声をひそめた。
「誰、あの人。」
「知らないの。おっかさんよ。そら、あたしが元一緒にいた……。」
「ああ……。」
「ね、どっかへいきましょうか。……連れてって頂戴。」
「だって……。」
「いきましょうよ、ね。」
 そして彼女はまた、こんどは近々と、一杯見開いた露わな眼で見入ってきた。
「だってさ……病人があるのに……。そんな薄情な人は知らないよ。」
「いいわよ……ね、いきましょう。おっかさんと美代ちゃんが、いいと云ったら、いいでしょう。」
 だが、その時また、美代子は痙攣を起した。照代は飛んでいった。
「お味噌の灸を[#「灸を」は底本では「炙を」]すえると、じきになおってしまうんだがね。」
 おっかさんはそんなことを云って、痛みの去った美代子に向って、熱くも何ともないからと説き勤めた。ばあやさんが小皿に漉味噌を持って来た。おっかさんはそれで、昔の二銭銅貨くらいの平ったい団子を拵え、それから艾《もぐさ》をまるめて小指の先くらいのものを幾つも拵えた。
「これをお臍の上にすえるんだよ。お味噌が熱くなるまで辛棒するんだよ。」
 僕は襖を閉め切った。
 味噌灸が[#「味噌灸が」は底本では「味噌炙が」]初まった。が途中で、美代子は泣き出した。
「いやよ、もうそんなものはいや。痛い……うーむ……痛いわ……冷くって。」
 皆でそれを押えつけて、それからひっそりとなった。
 暫くたった。ぱっと襖が開いた。照代がつっ立っていた。
「何をぼんやりしてるの。」
 ちらと見ると、おっかさんは味噌の団子と艾の団子とを両手に持っていた。僕は不意に可笑しくなった。
「そりゃあ冷いでしょうな。お臍の上に味噌をのっけては。」
「ですからね、」とおっかさんは真顔だった、「熱くなるまで辛棒すれば、じきになおるんですがね。」
「だって、お臍の上に味噌じゃあ……。」
 照次がくくと笑い出したのが初りで、照代も僕も一緒に笑い出した。おっかさんだけは真顔を崩さなかった。その光景を、いつのまにかうっとり眼を開いて、美代子がぼんやり眺めていた。
 照代はもう箪笥から、着物だの帯だのをやたらに取出していた。
「一寸……届けといたの。」とおっかさんが尋ねた。
「ええ。」
「あたし、留守してるわ。」と美代子が云った。
「ええ。おみやげを持ってきてあげるわ。」
 そして、僕は照代とそこを出た。
 タクシーの中で、照代はこんなことを云った。
「昨夜夜通しお酒の相手をして、それで冷えたのよ。寝てりゃじきになおるわ。あの通り元気ですもの。先刻だって髪をあげるって起き上ったくらいだから。そして、これで寝ついたら、ねえさん、あたしまた借金がふえるわって、そう云うのよ。可哀そうね。」
「うむ。」
 僕は気乗りのしない返事をした。ちらちらと見える街路の灯が美しかった。
 僕達は浅草に行って、何か食べて、活動か芝居を見るつもりだった。
「どこにしましょう。」
「どこでもいいや。君の行くところに黙ってついていくよ。」
「そうね、今日はあたしの云う通りよ。」
 そんな風で、タクシーは千束町の四辻で止まった。そして僕達は、きゃしゃな二階家の並んでる狭い石畳の路次をはいっていった。遠くのそんな家を照代が識ってるのが、僕には意外だった。

 敏子
 これから先は、僕も少し話しかねる。またよく覚えてもいない。で、簡単に云えば、僕達はそこの二階で、料理を取寄せて酒を飲んだ。僕も彼女も酔っていった。そしてはしゃぎ出して、それがいつのまにか、彼女の悪口になった。美代子が病気で苦しんでるのに、外に出て酒を飲むなんて怪しからん、と僕は彼女をなじり初めた。全く不人情な奴だ、と彼女も彼女自身を罵った……半分本気に。そして二人で何やかやと、彼女の悪口を云った。そうしたことが、僕にも彼女にも快かったらしい。悪口の対象はもう彼女ではなかった。誰でもよかったのだ。そして、その後でふっと淋しくなって、黙りこんで、他の室に移った。許してくれ……とこう云うのは、お前に向ってじゃない。いや、誰に向ってでもないんだ。
 その家から出たのは十一時頃だった。途中で小間物店に寄って、おみやげを買った。おっかさんや照次や彼女自身のものは、みなしるしばかりの一寸した品だったが、美代子にだけはちゃんとした物を揃えた。彼女は美代子の半襟や鹿子の柄の見立に熱心だった。
 彼女が送ってきてくれというのを、僕は頑として断った。
「あなたは、ほんとにやんちゃね。」
「ああ、やんちゃだよ。」
 そして僕達は距てのない微笑を交わした。
 彼女はおみやげと幾許かの金を持って、タクシーで帰っていった。
 吾妻橋のほとりは寒かった。風はなかったが、それでも寒い空気が川の方から流れよってきた。
 何という清楚な感じだ。これじゃ駄目だ。もっともっともぐってやれ。
 僕は北の方の一廓に向った。殆んど不案内な土地だったけれど、電車でいって後は歩いた。そして、奥の方の小路を、小店を小店をと物色して廻った。
「へえ、旦那、如何で……もう十二時近くですから、半夜のところで、御都合でどうにも……へえ、二両半、他には一切頂きません。」
「そいつあ有難い、今夜は観音堂の縁の下で寝るのかと思った。」
「へへへ、御冗談……。」
 僕はふらふらと梯子段を上っていった。そしてその晩は、北に窓が一つあるきりの何にもない長方形の室で、一人で眠った。
「君はいいからどっかへ行ってこい。ただ、風邪をひかないように布団だけは沢山頼むぜ。」
 山出しの女中と云った恰好の女は、布団を余計に一枚持ってきて着せてくれた。
 財産がなくなって、自分の腕で稼がなければならなくなっても、俺は力強く働いて見せる、とそんなことを、僕は懐中無一文の気で考えていた。
 そして翌朝九時頃までぐっすり寝込んで、それからそこを飛出して、稲毛へ行った。
 照代のことで、僕の懐中は実際淋しくなっていた。翌日のことが心細かった。で、午飯をぬきにして、晩に酒を一本だけつけて貰った。
 そこの旅館の、丘の松林の中にある離屋を、お前はよく知ってるね。季節外れのこと故、静かすぎるほどだった。その一室で、僕は時々遠く海に眼をやるきりで、死んだ者のようになって半日を過した。風呂にはいって頭まですっかり洗い清めて、善良な女中を相手に淋しい夕食をして、あたりに客もないひっそりした離屋の、朱塗りの餉台の[#「餉台の」は底本では「飴台の」]上に両肱をついて、僕はぼんやり昨日からのことを、前々からのことを、思い起していた。そして、うっかりすると照代と一緒に来る筈だったことを考えて、淋しい微笑が頬に上った。
 羽の長い蚊が一匹、十一月の末というのにまだ生き残って、餉台のふちを力無く這いまわっていた。そいつがひょいと飛び上っておいて、僕の鼻の先にとまった。
 僕は一寸苦笑したが、それから変に可笑しくなった。

 敏子
 こう話してくると、お前にも大体は分るだろう。僕はいくら自分の心にちゃんと聞いてみても、惨めだとか汚らわしいとか自責の念とか、そういったものを少しも感じなかったのだ。それも普通の道徳的な外面的の意味でじゃない。心の直接の裁きに於てなんだ。そのくせ、お前も知ってる通り、僕は本質的な道楽者でもない。
 こいつあおかしい、俺の本体は何だ、とそう僕は独語したもんだ。そしてぼんやり考えた、何もかもみな相対的なんだ、事実そのものも、人の心も、感情も思想も、人事はみな相対的なんだ。絶対的なものなんか何もありゃあしない……とね。だから、拘泥しちゃいけない、即《つ》きすぎちゃあいけない……。
 幼稚だね。だが分るかい。いやよく分るまい。僕自身にだってよくは分らないんだからね。
 珍らしく早めに起き上って、縁側の日向にぼんやりしていると、松の影が薄すらと匐ってる庭に、大きな濃い影がぱっぱっと飛んだ。おや、と思って眼を挙げると、鳩が二三羽松の梢に戯れていた。
 冷やかではあるがしみじみとした朝日の光だった。丘の裾から遠く霞んでる沖合まで、海は湖水のように凪いで鈍く光っていた。処々に繋ぎとめられてる小舟が、如何にも静かだった。
 その景色を胸深く吸いこんで、僕は東京に帰って来た。
 お前は驚いたようだったね、僕が余り早く旅から帰って来たので、そして帰るとすぐに、母に金をねだり初めたので……。
 母は僕の顔ばかり見ていた。
「旅費が足りなかったんです。」と僕は云った。「だけど、お母さんのところに無けりゃいいですよ。僕が稼ぐから……。なあに働きさいすりゃあ……。それより、お腹が空いちゃった。御飯を食べさして下さい。」
 そして、飯を食いながら、母が用で立っていった間に、僕は云った。
「稲毛に連れてってやろうか。」
「だって、」とお前はちっとも乗ってこなかった、「兄さんは行って来たばかりじゃないの。」
「それがね、実は、照代って女と一緒に行くつもりだったんだ。が、どうも……。だからその代りに、お前を連れてってやろう。」
「いやよ、そんな……。」
「だけどお前は、どうせそのうちには、ちっちゃな家庭のちっちゃな花嫁として、浜地と一緒に行くようなことになるんだろう。だからその前に一度、僕が連れてってやろうか。」
 お前はみな聞かないうちに、真赤になって俯向いてしまったね。僕は微笑したよ、ずるい微笑だったかも知れないが……。
 実際、稲毛に行くことなんかは、全くでたらめの話さ。こんどの日曜日にっていうやつさ。
 だけど、これで根性は確かなつもりなんだ。食後、座敷の縁側の日向で新聞を読んでると、お前は用もないのにやって来て、庭の方を見るふりしてじっと坐っていたね。後のために何か意見でもするつもりかしら、とそう思ったものだから、僕はわざと知らん顔をしてやった。が余り長くお前が黙っているので、ふと顔を挙げると、お前は眼に一杯涙ぐんでいる。そのお前の顔の、黒い睫毛と細い鼻筋とが、如何にも淋しかった。
「何を涙ぐんでるんだい。」と僕は云った。「心配しないでもいいよ。僕はひどくコスモポリタンだけれど、心の据えどころは知ってるからね。」
 するとお前は、神経質に頭を振りながら、本当に泣き出してしまった。僕はぐっとつまった。
「いいよ、分ってるから。……そんなことじゃない。だけど……真昼間泣く奴があるものか。笑った方がいいよ。」
 それは僕の本音なんだ。泣くことなんかありゃしない。馬鹿だねえ。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1925(大正14)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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