迷惑をかけて済みませんが、許して下さい。それから、俥を二台お頼みします。俥代くらいは持っています。私は御宅から出て行くのが、どんなに悲しいか分りません。いろんな打算をぬきにして、ただ純粋な感情から、悲しくて堪らないんです。私はいつまでも、あなたと澄子さんのことは忘れません。私のこともどうか覚えていて下さい。あなたの生きているうちには。立派な者に、たとえ世の中に名前は出なくとも、人間として立派なものになってお目にかけます。私は感謝の念で一杯です。」そして彼はまた歯をくいしばった。「でも長くいては悪いことになりそうです。すぐに引越します。何もかも許して下さい。すぐに引越します。」
 今井はぷつりと言葉を切って、一つ丁寧にお辞儀をして、慌しく二階に上っていった。
 辰代はまじろぎもしないで、彼の言葉を聞いていたが、彼からお辞儀されると、やはり丁寧にお辞儀をした。その頭を挙げた時には、彼はもう二階の階段を二三段上りかけていた。彼女は一寸眼を見据えて、それから立上って、彼の後を追ってゆこうとした。その時、縁側の柱の影から、仔細の様子を窺っていた中村が、飛んで出て彼女を捉えた。
「お止しなさい。」
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