ません。払いをしないで引越してゆくのを、許して下さい。私には何処からも金のはいる当がないんです。父も母もいないんです。ただ月々十五円ずつ、或る人から補助を受けてるだけです。家庭教師でもして働け、と云ってくれる者もよくありますが、そんな下らないことに、大切な能力を費したくないんです。私は専心に、読書と思索とに日を送ってきました。この前の下宿から追い出される時、書物を取上げられてしまったのが、実に残念でした。然し仕方ありません。一生懸命に勉強します。私一人を食わしてくれるくらいの余裕は、日本の社会にもあることと思っています。それだけの恩は、いつか社会に報いてやるつもりです。十倍も百倍もにして返してやるつもりです。そう思うと愉快です。けれど、実は今日引越すと云っても、行く先がないんです。正式の下宿屋は、何軒も食い逃げした揚句で、偽名でもしなければ置いてくれません。偽名するのはこの上もない屈辱です。それで、私は月々補助してくれる人の所へ、押しかけていってみるつもりです。もし後でその人が何か聞きに来ましたら、ありのままを答えて下さい。或は金を払ってくれるかも知れません、それも当にはなりません。御
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