いで、猫板の上を一杯涙で濡らしていた。
 澄子は二人の姿を――髪を乱して庖丁を握りしめながらつっ立ってる辰代と、火鉢によりかかって涙を流している今井とを――見比べてみたが、ぞっと背中が冷くなって、奥の室に逃げ込みかけた。その足を俄に返して、二階の階段を駈け上った。そして中村を激しく揺り起した。
「来て頂戴よ、早く。お母さんと今井さんとが大変です。早く……。」
 中村はゆっくり背伸びをしてから起き上った。そして着物を着代えた。帯を結んでる所を、澄子に引張られて下りてきた。
 辰代と今井とは、先刻のまま身動きもしないでいた。奥の室から流れ寄る薄暗い光に、中村はじろりとあたりの様子を見て、ぱっと電燈のねじをひねった。その明るい俄の光が、非常な効果を与えた。今井は夢からさめたように顔を挙げて、肩をすくめたが、それから寝間着の袖口で、猫板の上の涙を拭き取った。辰代も同じく夢からさめたように、手に握ってた庖丁に自ら気付いて、それを奥の室に投げやって、其処にぐたりと坐った。
「一体どうしたんです?」と中村は誰にともなく尋ねかけた。
 誰も返辞をする者がなかった。いつもあんなにいきり立つ辰代が、その時
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