「ええ。」
 そう答えて、澄子は自分の胸の中だけにしまったが、そのことが妙に気にかかった。今井の云っただけのものでなしに、自分自身も関係しているような、そして何だか悪いことになりそうな、或る大きな影が、心の上に落ちかかってきた。
 そして澄子がその方に気を取られてる時、一方では辰代が、以外なことを耳にした。
 今井は越してきて、五月の末になると、洋食屋と鰻屋との払いだけを済し、それから五円紙幣を一枚出して、残りの下宿料と牛乳屋の払いとは、今暫く待ってくれと云った。辰代は別に気にかけないで、その通りにしておいた。それから六月の末になると、今井は如何にも恐縮したような顔付で、十円だけ差出した。金の来るのがどういうものか後れたので、とにかくそれだけ納めておいて、残りと諸払いとは暫く待ってほしい、と云い出した。そして辰代は、すぐに金を催促するからという彼の言葉を信じて、それで我慢していた。所が、晦日《みそか》に金を取りに来た牛乳屋が、辰代の断りの言葉を聞いて、先月から滞ってるのにそれでは困ると、可なりうるさく云ってから、何と思ったか、下宿人には用心しなければ06.4.20いけないと注意して
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