まった。それへ向って、学生はまた一つお辞儀をした。
「どうか願います。」
 ぷつりと云い切って、身を固くかしこまったまま、もう身動き一つしなかった。
 暫く沈黙が続いたのを、辰代が漸う口を開いた。
「私共ではこの二人きりで、手不足なものでございますから、何もかも不行届きがちになりますけれど……。」
「なに結構です。それでは今晩参ります。」
「あの今晩すぐに……。」
「ええ。学生の引越しなんか訳はありません。」
 彼はもう立ちかけていた。
「では急ぎますから、失礼します。」
 辰代と澄子とは、彼をぼんやり玄関に見送った。それから障子を閉めきると、辰代はほっと吐息をついた。
「私あんな人は初めてですよ。」
「でも正直そうな人じゃありませんか。少し変ってるけれど、ひょっとすると……あれで天才かも知れないわ。」
 天才という言葉がすぐには腑に落ちかねて、辰代は眼を瞬いた。
「本当に今晩越してくるのでしょうか。」
「あんな人だから、屹度来るに違いないわ。」
「それなら掃除をしておかなければなりませんね。」
 綺麗好きな辰代はすぐに二階の四畳半の掃除にかかった。先ず室を掃き出しておいて、押入や畳に
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