が齢尽きて此世を去り、遺骸は珠丘の上に葬られた時、後に残った二人の妃は、その丘上に相擁して三昼夜ほど泣き続け、涙が尽きると次いで血が流れた。その血が竹にそそいで斑痕をなし、今もなお名物の斑竹となって残っている。
二人の妃はそれから、湘江のほとりで帝が生前愛玩していた五絃の琴を取出し、悲怨の歌を弾じて、泣きながら湖水のなかに身を投じ、帝の後を追って果てた。
その時の悲怨の歌――
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一片白雲青山内
一片白雲青山外
青山内外有白雲
白雲飛去青山在
[#ここで字下げ終わり]
これは、既に悲怨の域を越えて、悠久の自然の懐の中に於ける高い諦観に達してるものであり、無限の慈味がある。
私はこの歌の深い美しさを愛し、この歌を口ずさみながら囲棋に親しむことに、云い知れぬ楽しみを覚えたのである。舜帝の二人の妃が、碁道を創始したとも或は碁道を仙人から教わったとも云われる堯帝の、娘だったという因縁にもよるのである。
ところで、北京に遊んで、天壇の圜丘の上に立った時、ふと私の胸中に右の歌が浮んできた。
圜丘は天壇の主体であって、毎年冬至の未明に、天子斎戒して昊天上帝を祭られた所であり、壇上には、昊天上帝に配して祖宗の神位を奉祀し、日月星辰風雲雷雨の諸神を従祀されたのである。
壇は天円地方の義に則った広大な円形の構築、白大理石の欄干をめぐらした三重の丘壇で、各丘壇毎に九つの階段をのぼって、壇上に出で、天数に応じた九つの敷石をふんで、中央の円形の大敷石に達する。
その中央の敷石の上に、絨緞を敷き碁盤を据え、端坐して碁石を手にしたならば……という途方もない夢想を私は懐いたのである。その夢想と共に、白雲青山の歌が胸に浮んできたのである。
この話を、北京で幼時を過したという呉清源氏に私は語った。呉氏は私の話にうなずいてくれて、更に、天壇での碁の第一着手は天元に下すべきであろうと云った。まさに、至芸の人の言である。
L
或る女人の話――。
そこは、鋪装した広い街路だが、新らしく開かれたばかりのものであり、ゆるやかな坂をなしており、片側には小さな家が建並び、片側は神社の淋しい境内となっていて、人通りも少い処である。そこを、或る日の午頃、彼女は通りかかった。
すると、神社よりの片隅に見すぼらしい身装の年老いた人が、しょんぼり立っている。可哀そ
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