文学以前
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒狐《こっこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)娘|刑部《おさかべ》姫

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      A

 現に中央アラビア国の元首で、全アラビア人の信望を一身に担い、モハメッドの再来と目せられて、汎回教運動に多大の刺戟を与えている怪傑、イブン・サウドが、二十数年前、中央アラビアの砂漠の中を、少数の手兵を率いて疾駆していた頃の話である。
 当時、イブン・サウドは三十三四歳の血気盛り、出没自在を極め、幾度か危険に瀕しても屈しなかった。強大なアジマン族が四方の村々を侵している時、彼はひそかに兵を集め、急遽強行軍を決行して、アジマン族を追跡し、その不意を襲った。
 夜明け前のこと、アジマン族も急を知って応戦した。イブン・サウドは徒歩で銃を執り、軍の先頭に立っていたが、近距離からの敵の一弾を股に受けた。出血はげしく、立っているに堪えなかった。このために全軍はためらい、そのひまに敵は逃げのびた。
 イブン・サウドの軍は其地に露営したが、その陣営には種々の噂がひろまった。或は、アジマン族が大挙襲来して来るともいい、或は、新手の強族が襲って来るともいった。更に不幸な噂としては、イブン・サウドは敵弾のために陽物を失い、もはや男ではなくなり、軍勢を指揮するどころか、何の役にも立たない者になってしまったというのである。
 この最後の噂は、男性的力を頼りとする砂漠の民兵等をひどく動揺させた。指揮者を失えば彼等は単なる烏合の衆である。故郷へ帰った方がよいとの囁きが起り、逃亡がはじまった。
 天幕の中に寝ていたイブン・サウドは、その情勢を察知した。股の負傷は可なり深く、痛みも甚しかったが、致命的なものではなかった。全軍を落着かせるために、早速行動を取らねばならないし、殊に負傷はしたがやはり男であるとの証拠を見せてやらねばならなかった。
 彼は直ちに、近くの村の族長を呼び寄せ、結婚にふさわしい処女を一人選出するように命じた。命令は容易く実行された。
 そしてその夜、陣営の中央の天幕で、盛大な結婚式が挙げられた。賑かな祝賀の宴が張られた。云うまでもなく、イブン・サウドと選出された処女との結婚なのである。
 この一事
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