らだ。
ところで、この眼について私は、その所有者のことでなく、その所在のことを考えたいのである。
この眼は大体、常識とか概念とか云われるものの中に在る。即ち人間の年齢とか職業とか身分とか人柄とかについて、常識的な概念的な型が出来ており、その型を規準として眼が働くのであろう。
この眼を、理論的に考究すれば、文学の普遍性ということにまで辿りつけるかも知れない。然し、実際に於て、この眼にばかり頼る時には、作品は卑俗なものに堕して、芸術的香気を失ってしまうのは、何故であろうか。――また、通俗小説などに於けるくだくだしい人物の描写より、例えば酒場の一夕に於けるこの眼の一瞥の方が、よりよく人間を生々と捉えるのは、何故であろうか。
茲でも、饒舌を止めよう。行き当るところは、創造と現相との問題であり、真実と虚構との問題である。
文学に疲れた時、大衆の中に交って、更に大衆の中に没して、陶然たる気持で酒杯を挙げながら、逆にこの眼を呼び寄せ、この眼の奥を窺うのも、また楽しいことである。
J
公共の園の樹木の枝葉を折り取るべからざる禁制は、尤もである。公共の池の魚鳥を捕うべからざる禁制も、尤もである。
だが、園の方はともかく、池で、六七歳の子供達が、彼等の漁を楽しんでる風景には、微笑ましいものがある。竹切れで釣り糸を垂れたり、手網で岸辺をかきまわしたりして、僅か二三びきの小魚や小蝦を、バケツの中に生捕りにしてる子供たちを見ては、誰も恐らく禁制のことなど忘れて、暫くは立止って笑顔でうち眺めるだろう。
子供等のかかるささやかな漁も、無心に見ておれば、池の濁水がおのずから清浄になってくるような幻覚が起る。小魚や小蝦も鮮鱗の一種であり、鮮鱗の住むところ、その水はおのずから清らかである。――東京市内の池や堀は、みな泥深く水濁っているが、鮮鱗の住むことによって漸く救わるる。例えば、不忍池の濁水は、貸ボートの浮んでることよりも、蓮の青葉の繁茂してることよりも、なお一層、子供等が数ひきの小魚や小蝦をしゃくいあげてくれることによって、生きてる清水の幻想を与える。
就学以前の小さな子供等には、そのささやかなそして微笑ましい漁の戯れを、時には、公共の池で許してもよかろう。悪いのは大人の利得的な密漁である。
不忍池には、手の長い小蝦が沢山いる。傘大の網に餌を設けて、そっと水底に
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