々ある。屡々あるが、然し意外に――私などが意外とするほどに――少い。学院の立前としては、外出後の所業だけが問題であって、無断外出はさほど恐れない。余し実際に於ては、恐れるほどに多くはないのである。
 これが普通の少年少女であったとしたら、たとえ無断外出を厳禁されたとしても、案外に禁を犯す者が多かろう。然るに院生等には意外なほど少い。特殊の個人には何回も繰返して禁を犯す者もあるが、一般的にはごく少い。これは彼等に対する平素の訓育の効果もあろうし、学院の院風といったものの作用もあろうが、然し、彼等がこの禁制に意外なほど従順なところに、或る人は、彼等自身の憂鬱を見て取る。何かしら過去の所業から来る重圧のもとに、そうした一種の諦めに似た憂鬱さに陥ってるところに、そしてそこには自発的自己鍛錬の心が少いだけに、或る人は、彼等に対する不憫さを覚ゆる。
 だが、この或る人の感懐にはまだ私心があろう。吾々の道徳は、大体地理的境界に基くところが多い。吾々は実際、デパートには自由に出入しても、単に品物を見るだけのために普通商店にははいりかねるし、開け放してある人家に好奇心ではいって行くことは出来ない。普通の義理人情や仁義などから、善悪の悟性に至るまで、そこには或る地理的境界というものが考えられる。これは所有権の問題とは全く別物で、公地公道に於てのことである。人の道徳には一種の精神的地理がある。教護院の所謂不良少年少女も、この精神的地理を知っており、もし彼等が憂鬱であるとすれば、その故にこそ憂鬱なのであろう。

      I

 大勢の人々が集まってる場所に於て、人間を弁別する特殊な眼が働くというのは、面白いことである。互に見ず識らずの人の偶然の集まりであり、互の声音の響きさえ知らない人々の集まりでありながら、その中の個々の人物について、年齢、職業、身分、人柄など、大凡のことを一目で見て取るような、そういう眼が存在する。その眼に逢っては、全然得態の知れないような人間は非常に少い。
 かかる眼を、大抵の者は持っている。保安警察の事務にたずさわる者、政治や実業や商業に関係してる者、其他挙げれば殆んどあらゆる者となるだろう。芸妓や料理屋の女中や、カフェーや酒場の主婦などは固より、普通の女や少年までがそうだろう。――こんな下らないことを一々挙げたのは、そういう人達がまた、この眼の対象になり易いか
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