く。やがて潮煙の彼方に、陸地が現われる。その沿岸を、船は暫し巡航し、上陸点を決定するや、まっしぐらに突き進む。船は半ば陸地に乗上げる。武装の人々は船から飛び出し、そして其処で、時ならぬ狼煙と火焔とが立昇るのである。――彼等は船を焼いたのだ。自ら退路を断って、死地に身を投じたのだ。然しそれは、果して死地か、或は豊饒なる新世界か。
 これは、シラクサの僭主アガトクレスがカルタゴを攻略した時の光景というよりも、寧ろ多く、ノルマンの或る人々が南方に新生活を求めた時の光景と、そういうことにしたいのである。
 戦争に於て「船を焼く」ことは、アガトクレスの如き無謀な暴将にして初めて為し得るのみである。然しながら、個々の勇士はみなそれぞれ、「己が船を焼いて」敵陣に突進する。「己が船を焼いて」こそ、新たな境地が開けるのである。ノルマン人にとっては、豊饒な新世界が開けるのである。
 かかる気魄を、吾々は日常忘れがちである。忘れるというよりも、いざという時になってもなお、船を焼かずに済せることが余りに多い。そしてそれが常習となったならば、どうであろうか。
 デパートには常習万引の客というのが幾人かある。多く
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