根を下し、人の肺腑を貫く気合の声が出る。大抵みなそうである。そして、これはまさにそうすべきである。
 然し、その老人が本当に一流の達人ならば、剣や木刀を手にしなくても、常住坐臥の姿に於て、特殊の感銘を人に与える筈である。それを単なる老人と見るのは、子供の眼に過ぎない。
 なぜなら、私の観るところでは、芸の妙諦は体得にある。云い換えれば、一芸一能に秀でた者は、その一芸一能を、おのずから自分の身につけて、それが一の風格とまでなっている。
 私の知人に、六十を越した老婦人がある。長唄の名取であるが、単なる名取という以上に、殆んど名人の域にはいっている――と私は思う。唄は岡安派であるが、この方は声が美音でないためにさほどでもない。が三味線の方は絶品である。杵屋門下の逸足で、故六左衛門からひどく重んぜられていたとか。一度撥を取れば、どんなぼろ三味線でも、びーんと男の音締が出る。
 その老婦人は、それだけの腕を持ちながら、或る裏町の小さな借家に住んでいて、弟子も取らず、人中にも出ず、貧しい然し安穏な生活をしながら、時々憂晴しに三味線を手にするくらいのものである。
 その老婦人に、初めて逢った時、私
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