必要はない。

 最も純粋無垢な客観的表現は、童話の世界にあるように思われる。ただ具体それ自身の面白さのために、具体的な認識がそこに行われる。
 大勢の子供が集って、蝸牛の這うのを見ていた。頭を長く差伸し、二本の角をふり立て、大きな殻を背負い、銀色の跡を残しながら、垣根の枯竹の上を這ってゆく。
「蝸牛が這ってるよ!」
 それだけが子供達の認識である。
 蝸牛は何のために這ってるのか。何を求めて、或は何を逃げて、這ってるのか。どこからどこへ這ってるのか。……そういう事柄は凡て、蝸牛が這ってる姿の面白さを害するばかりである。そういう事柄と結びつけられる時、子供達の享楽は薄らいでゆく。
 朽ちかかった竹、その上を這ってる蝸牛、それだけを拡大鏡的にぽっかり浮き出させるところに、童話の世界の真髄がある。其他のことは、物語を組立てる上の余儀ない些事に過ぎない。

 子供の眼は、具体にだけ止まる。それが大人の眼になると、具体以上のものにまで及んでゆく。
 講談本を読むと、剣客物などで、一流一派に秀でたその道の達人は、如何に腰の曲ったよぼよぼの老人でも、一度剣や木刀を手にする時には、腰は伸び足は大地に
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