ろう。その上、ここの研究員を中心にして、青年や壮年の優秀な分子を、一定の組織へと動員することも可能である。一千名ほどはたちどころに獲得出来る。その優秀な一千名は、やがて一万となり、十万ともなるだろう。これは波多野さんにとって、有力な活動地盤である。――嘗て高石老人が側近の者に洩らしたところを、山口はそのまま繰返した。
「それを、むざむざ打ち捨ててしまうというのは、僕にはどうも納得しかねますね。」
 それから彼は少し声をひそめて言った。――何とかいう酒場を、波多野さんが買い取ったという噂もある。そういうことは、将来のため寧ろ遠慮すべきであろう。文化研究所をやめて、酒場の主人になる、これほど不合理なことはない。
「波多野さんは何をやりだすか分りませんよ。周囲の者がよく注意していなければいけません。あなた方も、よく注意しておいて下さいよ。ところで、僕はこれで失礼します。」
 人の心を或る方向へ傾けさせるには、議論を封じて言いっ放しにしておくのが最も効果的だと、彼は信じていたらしく、そのまま立ち去りかけた。裏木戸からの研究所への出入口は、休みには閉め切ってあり、彼は玄関の方へ向った。
 千枝子は小池を顧みたが、小池はまるで無関係な者のように、薄すらと晴れてゆく空を眺めていた。
 千枝子は儀礼上仕方なく、山口を送っていった。
 玄関で、彼は囁くように言った。
「奥さんのところに、吉村さんが見えていましたよ。あの人、僕とは話がしにくいとみえて、殆んど口を利きませんね。いったい、小説家というものは、男に対してはひどく無口で、女に対しては愛想よく話をする、そういったものかも知れません。」
 山口の横額にある薄い汚点、なにか火傷か皮膚病かの名残りとも見えるその汚点に、千枝子はぼんやり眼をとめていた。
 機械的に彼を送りだして扉を閉めきると、彼女はそこにちょっと佇んだが、それから、玄関わきの応接室にはいって、ソファーの上に身を落した。
 吉村さんとも遠くなった……とそれだけの思いだった。――以前、彼女は吉村篤史のところへ出入りして、文学上のいろいろな話を聞くのを楽しみにしていた。師としての敬意以上に、なにか心の上の親しみまで感じていた。それが、文化研究所が出来てからは、断ち切られるような工合になった。吉村の方から研究所を訪れて来た。千枝子とも談話を交えた。然し彼は、千枝子の室には通らず、未亡人の室の方にばかり通った。そして次第に、千枝子は無視される地位に置かれた。こちらから吉村を訪問することも、なんとなく憚られる工合だった。
 ――どうしてこんな風になったのかしら。
 感傷的にではなく、理知的に、彼女はぼんやり考え沈んだ。
 室の正面には、多彩な政治家だった故人波多野氏の肖像画が掲げてあり、それと向いあって、孫中山の書がかかっており、一方の卓上には、画集や写真帖が置いてあり、他方の棚のケースには、銀製の種々の記念品や骨董品が並べてあり、煖炉棚には、古い壺や皿が飾られていて、その片端に、坐形の大きな人形が一つあった。足のところが少し損じてるきりで、顔から胴体まで、真白な泥土の肌は、光りを浮べて生々しく輝いていた。
 その生々しい肌色に、千枝子は無心に眼を据えていたが、突然、その眼を大きく見開き、透き通るほどに頬を緊張さして、人形を見つめた。彼女自身の顔も人形のようだった。そのまま数秒たって、彼女は立ち上り、人形の方へ行きかけたが、やめて、扉わきの細長い柱鏡の方へ行った。そして鏡の中で、自分の顔を眺め、手や指や美しい爪を眺め、頭に手をやって前髪のウェーヴを整えた。なにか高慢な気味合いがその白々しい額に浮んでいた。
 かすかにスリッパの音がした。彼女は不意を衝かれたかのように壁際に身をひそめた。
「明日、二時に……。」
 吉村のらしい声がそれだけ聞えた。あとは言葉もなく、吉村は立ち去り、未亡人房江らしい足音が静かに奥へ引き返していった。それでもまだ暫くの間、千枝子は壁際に身をひそめていた……。
 その翌日、房江はいつもより入念に化粧し、而もあまり目立たない衣裳で、午後から外出した。千葉の友人を訪れるので帰りは分らないと言い置いたが、その夜は戻らなかった。

 太陽は雲に隠れて、時間のけじめのつかない明るさだった。露に似た冷かさが大気にこもっていて、小鳥の声は爽かに響き、遠く、時後れの鶏の声もあった。竹の葉にさやさやとそよぐけはいがあるだけで、庭の茂みは静まりかえり、藤の花が幾房か重く垂れていた。
 その朝の気が、濡縁に屈んでる吉村篤史の眼にしみた。
 衣ずれの音がして、波多野房江が隣室から出て来た。彼女は縁先へは出ず、食卓の前の座布団に膝をおとし、両手を卓上に重ねて、うっとり思いに沈んだ。
 二人とも黙っていた。小鳥の声がひとしきり高くなった。
 吉村は立ち上り、室にはいって、房江と向い合いに坐りかけたが、俄に、身をずらせて、彼女の膝に顔を伏せてしまった。少しく白髪の交ったその髪の上に、彼女は片手をやった。それから静かに、彼の顔を挙げさせようとした。
 彼は頭を振って、彼女の膝にまた顔を押しつけた。
「どうしたの。」と彼女は囁いた。
「なんだか……。」
「また、極りがわるいの。」
 彼女は突然、彼の頭をかき抱いた。
「おかしな人ね、子供みたい。」
「だって……。」
「もういいのよ。なんでもいいの。ね、そうでしょう。」
 彼女の腕がゆるむと、彼は静かに顔を挙げた。近々と彼女の顔があった。その細く閉じかけた眼の、厚ぼったい重い瞼がおもむろに持ち上がり、額に幾つもの皺をこさえ、瞳が輝きを含んで微笑んでいた。
 何かが一変した感じだった。その厚ぼったい瞼と輝きを含んだ瞳、それから、額の皺としぼんだ乳房、両方が別々なものとなって吉村の眼に映った。彼は男性の矜りを取り戻した。坐りなおして、彼女を眺めた。彼女は伊達巻だけの姿だったが、粗い十字を浮かした大島の着物に、長襦絆のしっとりした縮緬の半襟で、鬢の毛には櫛の歯跡が清楚に見えた。彼は浴衣に丹前を重ねた自分のみなりの襟を合せた。がその後で、悪戯っ児のようにうそうそと笑った。
 彼女は彼の顔をひたと見つめた。
「おばかさん……。」
 それからがくりと折れるように、上半身の重みを彼の方へよせかけてきた。
「約束のように、出来るかしら。」
「約束なんか、どうだっていいですよ。なるようになるでしょう。」
 彼はちらと眉根をよせた。
「少し、飲みたいけれど。」
「どうぞ。わたしも飲むわ。」
 彼は卓上の眼鏡をとり、女中をよんだ。
 房江は帯をしめてきた。食卓にきちっと就くと、肉附きのよいその体は、磐石を据えたように見えた。彼女は庭を眺めやった。
「静かないい家ね。」
 そして庭から彼の方へ眼を移した。
「どうして、こんなことになったのかしら……後悔なさらない。」
「あなたも、後悔しませんか。」
 二人はまじまじと眼を見合った。非常にあらわな眼付だが、それでもなにか、互に遠くから見合ってるような工合だった。
 後悔などはなかった。それは初めから分っていた。四十五歳の未亡人の彼女と、世間に名を知られてる五十歳の文士、それが却って安全弁だった。体面への顧慮もあり、分別もあった。また、向う見ずな情慾も恐らくなかったろう、病気で田舎に行ってる妻が彼にあることは、万一の場合の堤防ともなる筈だった。条件が揃ってる安全な火遊びであった。否、火遊びといえるほどの積極的な意志もなく、自然の誘惑への無抵抗な陥没だった。彼の方にはただ甘える気持ちがあった。意力も体力も創作力も衰えてゆき、而もその衰弱を意識しないで、その日その日の自己満足に安んじていた。精神生活の停止もしくは低下に身を任せた安らかさだった。その安らかさに甘える気持ちは、無抵抗のうちに彼女へ倚りかかっていった。対象のない漠然たる甘え方が、彼女を得て、観念的要素を多く含んだ肉体的快楽までも伴った。そういう彼に、彼女も安らかに倚りかかった。政治や経済上の政策、つまりは手段とか方法とか謀略とか、そういう雰囲気の中にばかり生きてきた彼女にとって、彼の漫歩的な気質は、木の葉や草の葉のような新鮮さを持っていた。そして彼のとりとめのない談話によって、彼女は気分をいたわられ、感情の機微を擽られた。文化研究所だの、新たな政党だの、なにかざわざわした動きが周囲にあるだけで、未亡人たる自分の存在はいつしか忘れられかけてるような淋しさを、彼女はしみじみと感じていた、その中での支柱でも彼はあった。而もこの支柱は甘い砂糖だった――すべてそれらのことは、敗戦の打撃と彼等の属する階級とに根ざしてるものであったが、彼も彼女もそこまで考えなかった。もし考えていたら、二人の関係は単なる社交だけに終っていたかもしれない。
 秘蔵のコーヒーにウイスキーを注いで飲み、それから二階の室で書画を見、次いで焼け野原に夕日の沈むのを窓から眺めた。残照が消えてしまった時、二人の肩は相接していた。それをどちらも避けようとしなかった……。その時からのことである。
 彼は酒を好きだったし、彼女も少しは嗜んだ。
 一度に銚子を二本と、ちょっとした小皿物とを、女中は運んできて、黙ってさがっていった。吉村は眼を細めた。
「嬉しそうね。」と房江は言った。
 彼女は気のなさそうに杯を取り上げたが、それを干すと、彼の様子をじっと眺めた。
「あなたは、千枝子さんを好きではありませんでしたの。」
 彼は唇をちょっと歪めた。
「千枝子さんは、あなたを好きだったようではありませんか。」
 彼はまた唇を歪めた。ややあって言った。
「愚問には答えません。」
 彼女は揶揄するように眼を光らした。
「でも、あのひと、好かれるたちね。山口さんは、ひところ、だいぶ熱心のようでしたし、佐竹さんも、好意を持っていらっしゃるようですよ。」
「だから、私もそうだというんですか。」
 房江は頭を振って微笑んだ。
 吉村も微笑んだ。
「あのひとは、なんだか気の毒ですね。顔も綺麗な方だし、頭もよい方だから、一応はまあ誰にでも好かれるでしょうが……単にそれだけですね。」
「それだけ……ですって。」
「つまり、恋人にも、また妻にも、ふさわしくないところがありますよ。」
「どんなとこなんでしょう。」
「恋人としては、顔の表情があまりきっぱりしすぎていますし、妻としては、手があまり美しすぎますよ。」
「そんなことが、邪魔になるでしょうか。」
「なりますよ。一応は好きになっても、それから先が躊躇される……つまり、後味がわるそうだというのでしょうか。」
「まあ、後味が……。」
「そういう女が、それも、普通の婚期をすぎた女に、ずいぶんありますね。」
「でも、それは、男の方が卑怯だからではないでしょうか。」
「何がです。後味のことですか。」
「ええ、怖いんでしょう。」
「そうですね、後味がわるいというより、怖いと言ってもいいですね。」
「それで、あなたも、千枝子さんが怖かったんですの。」
「私が言ってるのは、ただ、一般的なことですよ。」
「一般的だけでしょうか……。」
「そうじゃありませんか。そうでなけりゃあ、こんなこと言いませんよ。」
 吉村はそれきり口を噤んだ。なにか淋しいものに突き当ったようだった――千枝子は、房江には家族同様な者であり、吉村にはまあ文学上の弟子だった。その千枝子のことを冷淡に、二人の甘えた情愛の餌食にしていたのである。それだけの自意識が、吉村の胸に来た。
「こんな話、もう止めましょう。」
 吉村は立ち上って、室の中を歩き、それから房江の肩にもたれかかって、彼女の体温のなかに顔を埋めた。
「私はあなたに、もっともっと甘えたい。甘えさして下さい。」
 房江は彼の頭を抱いて言った。
「わたしも……。」
 ぬるま湯のような静かな時間がたった。二人は更にも少し酒を飲み、簡単な食事をすまして、その家を出た。曇り空の薄ら日で、風もなかった。生籬や木立の多い道を、省線電車の方へ歩いた。
 その時、歩きながら、房江ははじめて、今までなんとなく言えなかったこと、洋介のことを話した。―
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