波多野邸
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空《くう》

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(例)※[#「缶+権のつくり」、211−上−23]詰類
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 波多野洋介が大陸から帰って来たのは、終戦後、年を越して、四月の初めだった。戦時中の三年間、彼地で彼が何をしていたかは、明かでない。居所も転々していた。軍の特務機関だの、情報部面だの、対重慶工作だの、いろいろなことに関係していたらしく言われているが、本人はただ、あちこち見物して歩いたと笑っている。実際のところ、本人の言葉が最も真実に近いものであろう。
 彼は事実をあまり語らなかった。意見を殆んど述べなかった。曖昧な微笑と掴みどころのない言葉とで、すべてをぼかしてしまった。故意にそうするのではなく、自然にそうなるかのようだ。大体に於て、所謂大陸ボケかとも思えるところがあった。あの人は少しぼんやりしている、というのが一般の印象だった。すくすくと伸びた体躯、肉附も普通で健康そうだったが、陽やけした顔の表情に、紙を一枚かぶせたような趣きがあった。然し、注意して眺めると、その重たそうな瞼の奥から、時折、両の眼があらわに露出してきて、表情を覆うている紙にそこだけ穴があくことがあった。
 破壊と建設とが話題になってる時のことだった。――破壊と建設とは二つのものと考えてはいけない。古い家屋を壊して、その跡へ新らしい家屋を建てると、そんな風に考えてはいけない。精神文化に於ては、壊すことは即ち建てることであり、建てることは即ち壊すことだ。急激にせよ、徐々にせよ、新たな建設には必ず破壊が伴い、新たな破壊には必ず建設が伴う。そして両者は同時的に同空間的に行なわれる。破壊と建設とを別々なものとする観方は、両者の間に空虚な時間と空間とを許容することであって、それは、吾々の精神の在り方に、生の在り方に、矛盾する。ここには、空虚な時間や空間はない。建設することによって破壊され、破壊することによって建設されるのだ。――そのようなことを話してる私達の方を、波多野洋介は黙って見ていた。私が見返すと、彼の顔は、濡れた紙を一枚かぶってその下でぼんやり微笑してるような工合だったが、眼のところだけ穴があいて、黒目がまじまじと覗き出していた。私の視線を迎えて、彼の重たそうな瞼は静にもちあがり、ぼんやりした微笑が眼にまで拡がって穴を隠してしまった。だが、消えてしまったその両眼の穴が、なにか私を冷りとさした。
 私達――彼をも含めて三四人の私達は、少しく酔っていたし、室は薄暗かったが、それでも、彼はあまり口を利かず、これが顔面筋肉の自然の姿態だというようなぼんやりした微笑を浮べていた。後になって、彼の時折の眼付にも私が見馴れてくる頃、彼は議論に加わることもあったが、特に頭に残るような意見も提出しなかったようだ。或る時、何かの機会に、実行の方法が決定しない前の議論は無意味で、議論は実行方法が決定してから後にやるべきものだというようなことを、彼が言い出し、それではまるで議論にも話にもならないと、反駁されたことがあった。それでも彼はやはり、ぼんやりした微笑を以て応じた。彼は何か言葉が足りないか言い方がまずかったのであろう。それともやはり大陸ボケだったのであろうか。
 私達がよく落ち合ったその家は、日本橋裏通りの小さな酒場だった。二つの街路に挾まれた二階家の、表の方は刳貫細工物の問屋になっていて、その裏口の階下、昔は倉庫ともつかない物置場であったらしいのを、山小屋風に改造したもので、広い土間と框の低い小部屋が一つ、窓が狭くていつも薄暗かった。商売はたいてい夕方から夜にかけてだが、電球の燭光が足りないのでやはり薄暗かった。椰子の実を灯籠風に刳り貫いたのへぽつりと灯火がともって、入口にかかげてある、それが目標しだった。中にはいると、長髪で没表情な大田梧郎が、また時には、いがぐり頭で愛想笑いを浮べてる戸村直治が、酒を出してくれた。日本酒、ビール、各種のウイスキー、時には焼酎もあったが、この焼酎だけはとびきり上等だった。料理は殆んど出来ず、ピーナツ、するめ、ハム、※[#「缶+権のつくり」、211−上−23]詰類に過ぎなかった。客はたいていインテリ層の顔馴染みの者で、見識らぬフリの客には居心地がわるかった。店の名前は、大田梧郎の名を取ってただ「五郎」で、飲み仲間では、五郎へ行こうとか、五郎さんとこへ行こうとか、そういう風に言われていた。
 この酒場のどこが気に入ったのか、波多野洋介はしばしばやって来た。もっとも、私達が彼を誘ってくることも多かった。彼は帰国後、当分の間はという殆んど無期限の有様で、ぶらぶら遊んでいた。読書だけは熱心にしているようだったが、そのほかは、友人たちとの私交、演劇や音楽会、散歩や酒、近県への一二泊の旅など、東京中心の土地を改めてなつかしんでいるかのようでもあった。これからどんな方向へ進み、どんな仕事をするつもりか、恐らく彼自身でも見当がつかなかったのではあるまいか。
 洋介のそういう態度は、外地からの帰還者ということを考慮に入れても、やはり非難の余地があった。深刻な食糧危機、政局の昏迷、社会情勢の不安、其他、あらゆる問題が堆積錯綜して、敗戦後の立ち直りが可能であるか否か、見通しさえもつき難かったのである。このことについて、彼の亡父の親友だった高石老人は、豪宕な調子で彼を揶揄したことがある。それに対して、彼は例の微笑を浮べた。
「そうですが、実際のところ、私にはまだ何も分らないのです。だから、いま、勉強中なんです。」
「さよう、大いに勉強してくれ。」と高石老人は真面目に言った。
 その勉強の機関、というほどでもないが、洋介が帰国してからの活動の足掛りとして、ささやかなものが、高石老人の発意で設けられていた。邸内の、故人の書斎と次の間とをそれにあて、名前だけは厳めしく、波多野文化研究所とされていた。戦争犯罪の摘発が行われ、官界や政界から公職追放者が続出しそうな形勢になった頃から、この文化研究所は既に発足していた。果して高石老人の見通し通りになって、この研究所では、文化一般を検討する仕事に取り掛ったが、資料も少く人員も足りなかった。故人の蔵書や高石老人が集めてきた記録などの外、故人と親しかった学者井野老人の蔵書も借りてこられた。それらを、午後一時から五時までの時間に、数名の研究員が、調査というよりも寧ろ各自の勉強のために読み耽った。謂わば一種の公開図書室で、図書払底の折柄、研究員として出入の許可を求めてくる者が多かった。高石老人と井野老人とがそれらを選択した。固より、研究員という名目については、無給でまた無料だった。
 高石老人はこの文化研究所を自慢にしていた。研究の成果などは問題でなく、研究の指導者さえも無かった。ただここに出入する研究員を通じて、壮青年層に、波多野洋介が一種の活動地盤を持つだろうということが、老人のひそかな目論見だったらしい。
 この研究所に、或る私立大学の教師をし、傍ら翻訳をやってる佐竹哲夫が、勤勉にやって来た。然し彼は他の人々とはあまり口を利かず、非常な速度で書物を読んだ。或る政党の書記局にいた山口専次郎も、しばしばやって来た。彼は書物などは殆んど見向きもせず、時事問題について誰彼の差別なく意見を求めた。有名な文士の吉村篤史も、時々やって来た。なにか小説の材料になる記録でも物色してるらしかったが、未亡人の室の方に招じられて話しこむことが多かった。其他いろいろな人が来たが、年若い人が多いし、この一篇の物語には関係が少いようである。波多野家に家族同様の待遇でいる魚住千枝子が、室の掃除や整頓に当っていたし、以前から寄宿してる一人の学生がそこに寝泊りしていた。
 ところが、波多野洋介はこの研究所を全然無視する態度を取った。そちらへ足を向けず、そこにある書物を一冊も読まなかった。彼は自分の八畳の書斎に若干の書物を持っていたし、なお読みたい書物は友人から借りてきた。友人が文化研究所のことを言うと、彼は例の通りぼんやりと答えた。
「あれはどうも、僕のものではないようだ。」
 茲に、なお一つ私の観たところを附け加えておくが、彼はすべてのことを甚だ漠然としか言わなかったけれど、その背後には、明瞭な、ややともすると烈しいほどの、好悪の念があったようだ。好きだか嫌いだか、それが根本の問題で、あとはただ漠然とした言葉となって現われた。だから表面上、彼は多くのことに無関心のようにも見えた。
 やがて彼が、文化研究所を高石老人の家に移転さしたい、さもなくば閉鎖したいと、漠然とではあるが強硬に言い出したことは、周囲の人々を驚かした。
 それから、これは一部にしか知られていないことだが、彼は酒場「五郎」のある建物を買い取った。戸村直治のひそかな斡旋によるものだった。刳貫細工物の問屋は多年の不況で、その建物を売りたがっていたのである。そして売買は行われたが、表面上は変化なかった。問屋一家はやはりそこに住んで、仕事を続けた。裏口の階下を借りてる「五郎」も元のままだった。ただ、裏梯子段の上の二室がこの酒場に殖えて、それは特別の小集会などにだけ使われることとなった。そのことが、店主の大田梧郎は固より、私達を、驚かせまた喜ばせた。
 それらのことを、波多野洋介は無関心な調子でやってのけた。時折やって来る井野老人を相手に、碁などうっている彼の様子は、無為徒食の一帰還者にすぎなかった。

 波多野洋介に対して、魚住千枝子は困った立場にいた。
 千枝子は未亡人の縁故者だったので、洋介のことは前から知っていたが、親しく接するのは初めてだった。洋介は博多港からの電報と殆んど前後して、飄然と帰ってきた。千枝子は古い女中のお花さんと一緒に、彼を迎え入れる支度にまごつき、次いで、玄関では、彼の荷物の少いのに却ってまごついた。彼はさっさと茶の間へ通った。そして彼が少しくくつろいだ頃、千枝子はしとやかに室へはいって、襖ぎわに両手をつき、低くお辞儀をした。
「お帰りあそばせ。」
 それきり、顔がなかなか挙げられなかった。
 未亡人房江が、彼女を洋介に引きあわせ、近くへと差し招いたが、彼女は席を進めかねた。その時のことが、彼女に一種の地位を決定してしまったかのようだった。つまり、小間使めいた地位に彼女を置いたのである。後になって、彼女はそのことを考えてみた。なぜもっと率直に振舞わなかったか、お帰りあそばせなどとどうして言ったか、それを考えてみた。然し自分でも訳が分らなかった。而も一度決定した地位からは容易にぬけ出せなかった。それかといって、彼女は小間使の仕事をしたわけではない。洋介の身辺の世話は、房江の手で、更にお花さんの手で、すっかり為されたし、彼女の仕事はおもに研究所の方にあった。ただ、家の中で、彼女はいつも、足音を忍ばせ小腰を屈めて、というほどではないが、目立たぬようにしとやかに振舞い、座席にも気を配った。そしてそれが一層ばかばかしいことには、彼女自身、知識も教養も相当に具えてる、三十歳の身の上なのである。
 洋介は、誰に対してもあまり話しかけなかったが、どういう時ということなく、ふいに、じっと人の顔を見る癖があった。その視線を受けると、千枝子はいつもより更に縮こまった。食事の時などは、彼の視線がいつじっと注がれるか分らないので、一層かたくなった。ただそういうこと以外、彼は彼女に無関心のようだった。その上、彼の日々はひどく不規則だったので、彼女が彼に接する機会も少なかった。それでも、彼の存在そのものが、いつも重々しく家の中に感ぜられた。彼に大変気を遣っているような房江の影響もあったらしい。
 お花さんだけは、何の遠慮もなく彼を昔通りに子供らしく取扱い、そして彼を「お坊ちゃま」と呼んでいた。その呼称が千枝子には羨ましかった。千枝子は彼を何と呼んでよいか困った。お坊ちゃまでは固より変だし、若さまとも言えないし
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