、旦那さまもおかしいし、先生とも呼べなかった。仕方なしに、そこを省略する言い廻し方をしたが、第三者には往々、波多野さんと言った。
 気兼ねなくすらすらと出る「お坊ちゃま」を、彼女はお菊さんのところでも聞いた。
 お菊さんというのは、もと波多野邸にいた女中で、今では戸村直治の妻であった。彼等は空襲時に罹災して、一時は波多野邸に避難していたが、戸村はすぐ焼け跡に出かけてゆき、壕舎を作って、先ず自分一人そこに住み、地主に交渉して、可なりの地面を借り受けた。その素早いやり方を後で誉められると、彼は事もなげに笑った。
「なあに、ちょっと、骨惜しみをしなかっただけですよ、間もなく戦争はすむと、分っていたし、ほかに思案もありませんしね。」
 戦争がすむと、彼はそこに簡単な小屋を建てた。持ち金の殆んど全部を注ぎ込み、屋根瓦などは焼け跡から自分で拾い集めた。その六畳と四畳半と二畳の家に、妻と二人の子供とを引き取り、広い耕地を拵えた。そして午前中は耕作、午後から夜にかけては「五郎」へ出かけた。
 この戸村のところへ行くのが、魚住千枝子には楽しみだった。一升ばかりの米がはいってる袋をぶらさげて行き、袋一杯にかさばった野菜を持って帰るのである。この往来ははじめ、お花さんやお菊さんがしていたが、いつしか千枝子が進んで引き受けてしまった。袋の手触り、米にせよ、野菜にせよ、そのなにか新鮮な手触りが、書物などとは別な快感を与えてくれた。
 耕地はみごとだった。瓦礫の畦で幾つかに仕切られ、周囲にはやはり瓦礫の砦が築かれていて、全部で三百坪ほどもあった。その半分以上に、各種の野菜が植えられていた。蚕豆や莢豌豆にはかわいい花が咲いており、キャベツの大きな巻き葉が出来かかっており、時無し大根の白い根が見えており、胡瓜の髯が長く伸びており、其他さまざまな野菜類が、各自の色合と形とで日光に輝いていた。種類が多いだけに一層豊かに思われた。空いてる地面には、やがて薩摩芋が植えられることになっていた。いくら多く作っても、知人たちに分配するにはまだ足りないそうだった。麦を蒔いていないことが自慢で、地面を長く占領し肥料を多く吸収する麦は家庭園芸の範囲外のものとのことだった。
 このみごとな菜園を控えてる小屋へ、千枝子が米を一升ばかり届けると、お菊さんはその米を両手ですくってさらさらとこぼし、またそれを繰り返して、淋しく微笑んだ。
「やっぱり、お米が一番なつかしゅうございますね。この四五日、一粒も頂かないんでございますよ。」
 米の配給はどこでも遅延していたが、それでも……千枝子には意外だった。
「何をあがっていらしたの。」
「お魚と野菜ばかりで、もうがっかり致しました。」
 それも、千枝子には意外だった。魚や野菜は波多野家にはひどく乏しかった。
「まったく、不自然で不合理ですわ。」
 その言葉は空《くう》に流れた。お菊さんは機械的に頷いただけで、茶を汲んで出した。
 耕地の片隅で、二人の子供が瓦や石を積んで遊んでいた。男の子は、女の子のように髪の毛を長く伸ばしており、女の子は、男の子のような絣の着物をきていた。千枝子はそちらへ行った。
「何をしているの。」
 兄は立ち上って、ちょっとお辞儀をした。
 朝早く、畠に出てみると、土瓶のように大きな蟇蛙がいた。それの宿にするため、中を空洞にして、瓦や石を積み上げているのである。むずかしくてなかなか出来なかった。千枝子も手伝った。
「ここに、蛙がはいると、怖いわ」と妹がふいに言った。
「なぜなの。」
「蛙にさわると、疣が出来るんでしょう。」
「嘘だよ。」と兄が叫んだ。「お父さんが、そんなことはないと言ったよ。」
「お母さんは、ほんとだと言ったわ。ねえ、どっちなの。」
 千枝子は返事に迷った。そこへ、お菊さんが籠を持ってやって来た。子供たちに疣のことを尋ねられると、彼女はにっこり笑って答えた。
「さわりかたが悪いと、疣が出来ますよ。さわりかたがよければ、疣は出来ません。」
 彼女は畠にはいりこんで、キャベツや大根や小蕪をぬいた。
 千枝子はそこにつっ立って、午前の陽光に照らされてる豊かな菜園を、しみじみと眺めた。男のように腰に両の拳をあてて眺めた。それから、お菊さんの後を追って行った。
「わたし、お願いがあるんですの。こちらの畠の仕事を、手伝わして下さいませんか。」
 お菊さんは振り向きもせずに答えた。
「あなたには無理でしょうよ。出来たものを採り入れるのは何でもありませんが、土を掘り返したり、肥料をやったり、作るまでが大変でございますよ。」
「それは、覚悟しております。」
 ひどくきっぱりした調子なので、お菊さんは振り向いた。血の気が引いて透き通ったかと見えるほど緊張した顔に、輝きを含んだ眼が、ひたと見開かれていた。お菊さんは当惑して、無意味に微笑んだ。
「それから、も一つ……あの五郎とかいう店へ連れていって下さいませんかしら。」
 お菊さんは、こんどは安心して微笑んだ。
「それは、わたくしには……。お坊ちゃまにお頼みなさいませよ。」
 お坊ちゃまという言葉を納得する間、千枝子は黙っていた。
「お酒を飲みに行くのではありません。あすこで働けるかどうか、見に行きたいと思っています。」
 お菊さんは返事をせずに、野菜の籠を取り上げた。そして二人とも無言のまま家の方へ行った。
 縁先に腰掛けて、お菊さんはしみじみと千枝子の顔を眺めた。
「つまらないことを考えるのは、おやめなさいませ。誰でもどんなことでも出来るというわけではございませんからね。」
「いいえ、ただ、何でもよいから一生懸命に働いてみたいと思います。」
「今迄どおり、御勉強なすったら宜しいではございませんか。」
「勉強よりも、働くことです。」
 お菊さんは口を噤んで、野菜を整理した。そこへ、戸村が姿を現わすと、千枝子は改まった御礼を言い、野菜の袋をさげて帰って行った。その後ろ姿を眺めながら、お菊さんは先刻の話を伝えた。
「あのひととは、なんだか話がしにくいわ。全くの本気らしいようでもあるし、こちらがからかわれてるようでもあるし……。」
 戸村は考えながらゆっくり言った。
「あのひとには、なにもかも本気だろう。ただ、頭がよすぎるから、ちょっと危いね。」
 千枝子の後ろ姿は、焼け野原の中に長く見えていた。かさばった野菜の袋をさげ、男みたいに肩を張り、頭をつんともたげてわきみもせず、ゆっくり足を運んでゆく、そのモンぺ姿は、青々と伸びてる麦の間を、電車通りの方へ、次第に遠く小さくなっていった。

 雨がちで冷かな数日の後、いやにむし暑い日が来た。その午後、西南の中天に真黒な雲が屯ろし、それが渦巻き拡がり重畳して、空を覆うていった。地平近い明るい一線も隠れ、黒雲は南から東へと急速に移動しながら、西に本拠を置き、北方に僅かな青空を残すのみとなった。天地晦冥といった趣きで、樹々の若葉がざわめいた。
 魚住千枝子は、暴風雨の用意にというほどではなく、ただなんとなくそこらを見廻る気持ちで、文化研究所の方へ行ってみた。日曜日のことで、研究所は休みだった。家に寄宿してる学生の小池章一が、縁先に腰掛け、煙草をふかしながら、空を眺めていた。千枝子が側へ行っても、ちらと振り向いただけで、また空を眺めた。
「何をしてるの。」と千枝子は言った。
「雲を見てるんです。面白いですよ。」
「面白いより、凄いわね。」
「こんな時に、竜が天に昇るって、昔の人はうまいことを言ったものですね。」
 黒雲はその厚みが測り知れないほど重畳していた。突風が表面を掠めてるらしく、砂塵をでも挙げるように灰色の煙が千切れ飛び、更に内部にも突風が荒れてるらしく、真黒な塊りが巻き返していた。日の光りは全く遮られて、薄闇が雲から地上へと垂れていた。
 大粒の雨が、ぽつりと来そうでもあり、一度にざあっと来そうでもあった。だが、雷鳴は少しもなく、大気は乾燥していた。
 千枝子は突然、小池に呼びかけた。
「小池さん、煙草を一本下さらない。」
 小池は彼女の方を眺めた。
「煙草を、どうするんですか。」
「勿論、吸うのよ。」
 彼女も縁先に腰掛けて、唇の先で煙をふかした。癖のない細そりした指と、貝殻のような美しい爪との、その手先は、映画女優のそれのようであり、薄い皮膚の張りつめた頬は、蝋細工のようだった。小池は雲の方をやめて、彼女の方を眺めていた。
「煙草なんか吸って、いいんですか。」
「わたしだって吸うわよ。」
「然し、今まで一度も……。」
「遠慮してたのよ。」
 そして彼女は、やはり空の雲から眼を離さずに、しみじみと言った。
「なんだか、窮屈になってきたわ。遠慮したり、気兼ねしたり、いつもそうでしょう。それが、こちらの……波多野さんが帰っていらしてから、殊にそうなの。別に、怖いわけじゃないけれど……変ね。」
「波多野さんは自由主義ですよ。あなたが遠慮してるのは、奥さんの方でしょう。」
「いいえ、小母さまには遠慮なんかないわ。」
「それでは、ここの、雰囲気かも知れません。」
「そうね。そんなものが、……帰っていらしてから、はっきりしてきたのかも知れないわ。そうだとすると、わたし、ずいぶん迂濶だったのね。」
「なにが迂濶ですか。」
「そんなことに、これまで、気がつかなかったのよ。小池さんは呑気でいいわね。煙草を吸ったり、酒を飲んだり、薪を割ったり……。」
「そりゃあ、僕は男ですもの。まあ、謂わば書生ですね。」
「小池さんが書生なら、わたしは何でしょう……一種の女中ね。書生がすることを、女中はしていけないでしょうか。」
「それは面白い問題ですね。波多野さんに聞いてごらんなさい。」
「ええ、聞いてみるわ。」
「返事はきまってますよ。書生がすることは女中もして宜しい、人がすることは誰でもして宜しい……波多野さんならきっとそう言われますよ。奥さんの方は分らないけれど。」
「そうかしら。」
「然し、あなたは女中じゃありませんよ。」
「それでは、何なの。」
「家族の一人ですね。だから、少し窮屈なんでしょう。」
「違うわよ。まったく逆よ。いえ、こんなこと、男には分らないでしょう。やっぱり、男と女とは、立場が違ってよ。」
「そうなると、僕にはよく分りませんね。」
 そんなことはどうでもよいという調子で、投げやりに言って、小池はまた空の方を眺めた。
 いつのまにか、強い明るみが地上に流れていた。黒雲は東へと移動し続けていて、西空の濃い本拠が拭われるように薄らいでゆき、真綿のように透いてきて、日の光りさえも洩れそうになった。
「降ればいいのにねえ。」と千枝子は言った。
「降らない方がいいですよ。」と小池は言った。
 そして二人はまた空を眺めた。東の空の黒雲は、もう渦巻きもせず、風に吹き飛びもせず、静に地平線の方へなだれ落ちていた。
「ひどく仲よさそうですね。」
 はずんだような声の調子で、山口専次郎がやって来た。櫛の歯跡が目立たぬほどに髪をふわりと梳かし、空色の縁取りのあるハンカチの耳を上衣の胸ポケットから覗かしていた。
 彼は研究所の中をわざとらしく見廻して言った。
「ああ、今日は休みでしたね。だいたい、日曜日を休みにするなんか、おかしいですよ。学校ではありませんからね。この点だけは、僕は不服ですね。」
 千枝子は空を見ながら言った。
「日曜日でも、書物を御利用下すって構いません。」
「いや、僕はあまり読書をしない方ですが……。」
 そこで言葉を切って山口は二人の様子をじろじろ眺めた。
「何か、お話中だったんですか。」
「ええ、書生と女中との話です。」
 挑むような言葉に、山口は眼をしばたたいた。然しそんなことに気を遣わないで、彼は言い出した。
「この研究所を閉鎖するという噂がありますが、本当でしょうか。本当だとすると、僕には波多野さんの考えが分りませんね。」
 そして彼は一人で饒舌りだした。――今までまだ、研究所はまとまった研究結果を挙げていないが、然しこういう施設は大変役に立つ。これによって、過去の文化の誤謬が発見され、将来の文化への一指針が確立されるだ
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