―洋介は房江の実子ではなく、故人が房江との結婚より数年前に他でもうけた子で、房江とは十年あまりの年齢の差しかなかった。それ故、二人の間には、或る程度の距りを置く遠慮が常にあった。その上、支那から帰還してきた洋介は、その思想や感情や生活態度などについて、房江の理解し難いものを多分に持っていた。母としての彼女の手から彼はもう脱け出してしまってるかのようだった。彼は彼女に何も相談しなかったし、打ち明けもしなかった。相談したり打ち明けたりするものを持っていないような様子だった。なにかぼんやりしてるようでもあった。
 それなのに、いつのまにか、文化研究所はよそへ移転されるらしいことになってきた。そういうことにしたのは彼だった。そればかりならまだよいが、彼はよそに料理屋を買い取っていた。ささやかな家ということだったが、彼は相当多額な金を引き出したらしかった。もとより、封鎖預金からの封鎖支払の形式によるものだったが、それが幾口にもなっていた。どうもささやかな小料理屋というだけではなさそうだった。今後とも、彼がどんなことを仕出来すか分らない不安があった。結婚の話などは笑うだけだし、今後の方針なども笑うだけだった。そういう彼について、房江はひどく気を揉んだが、どうにもならなかった。――そしてまた房江は、吉村とのことを彼に知られるのを、最も恐れていた。それはなんだか彼女の致命傷になりそうだった。最後の思い出に、吉村と一晩ゆっくり逢いたい、そしてもう後はさっぱりしたい、そういう約束だったのであるが……。
「今後とも力になって下さるわね。」と彼女は足先に眼を落しながら言った。
 ぽつりぽつりと、そのような語をしながら、二人はゆっくり足を運んだ。
 大きな椎の木が、道の上まで覆い被さっていた。椎の花のむせ返るような匂いが濃く漂っていた。吉村はハンカチで顔を拭きながら呟いた。
「椎の花、五月の匂いですね。」
「え、五月の匂い……。」
 房江はその言葉を繰り返して、椎の茂みの方を仰ぎ見たが、その瞬間、眩暈に襲われたかのように、よろけかかって吉村へ縋りつき、彼の胸に顔を伏せてしまった。

 高石老人と井野老人とが波多野邸で落ち合うことになった時、文化研究所の移転問題が公然と議せられた。未亡人房江は脳貧血の気味で寝ていたが、自分の代りに、魚住千枝子を席に侍らして、秘蔵のコーヒーとウイスキーを出させた。研究所に来ていた佐竹哲夫も呼ばれた。それから房江の発意で、吉村篤史も電話で呼び寄せられた。
 波多野洋介もそこに出席しなければならなかった。ところが彼は、井野老人と碁をうちはじめて、殆んど意見らしいものを述べなかった。
「高石さんのお宅へ移した方がいいと思いますね。」
 そもそもの初めから彼はそう言うだけで、而もそれが理由づけなしに決定的な響きを持っていた。高石老人の家には、母屋から廊下続きの別棟になってる恰好な室があった。
 彼の碁の相手になってる井野老人は、まだ髪の毛が濃く、痩身長躯、たいてい和服の着流しで、何よりも囲碁が好きだった。研究所には可なりの蔵書を貸与しているにも関らず、その移転などは問題にしなかった。
「研究所と言っても、たかが、まあ図書室だからな。何処だろうと、結構だよ。」
 全くそれに違いなかった。
 然し、研究所には数十名の優秀な研究員が附随していた。それを考えに入れなければならなかった。佐竹はこのことを取り上げた。
「こちらの事情などは、あまり顧慮しなくても宜しいと思います。研究員たちをどういう風に導いてゆくか、それが本質的な問題でしょう。つまり、今後の運営の方法によって、研究所の性格がはっきりして来ることと思われます。」
 これには、高石老人が最も賛意を表した。然し、それならばどうしたらよいかということについては、一向に無関心だった。そのようなことは先々の問題だった。ただ、研究員を重視することが気に入ったのである。
「まったく、彼等を糾合すれば、社会的な一つの勢力ともなるよ。」
 だから彼は、研究所を自邸に置くことにも不賛成ではなかった。嘗ては惑星的存在として政界に暗躍したことが、その肥満した体躯に、短く刈った半白の髪に、厚がましい顔の皮膚に、隠退してる今でも仄見えていた。そして彼はもう、波多野洋介に将来への期待を失いかけていたのである。
 こうした一座の空気を、吉村は敏感に見て取った。研究所の移転を議する立前ではあったが、移転そのものはもう決定してるに等しかった。吉村は黙ってウイスキーを飲んだ。
 研究所員の個人個人のことが噂に上った。だが高石老人は僅かな者しか知らなかった。
「山口を御存じでありましたね。」と佐竹は尋ねた。
「あれは知っている。わしのところへも何度か来た。」と高石老人は答えた。
 その山口専次郎について、佐竹はおかしな話を伝えた。――数日前、山口は日本橋裏の或る酒場に行ったらしい。すると、ビール一杯も飲まないうちに、そこにいた四五名の酔っ払った無頼漢に取り囲まれて、喧嘩をふきかけられたが、彼はそれを巧みにあやなして、外に出たらしい。その酒場がどうやら、波多野洋介が経営してる店らしい。あのような無政府状態の店は、改良する必要がある……。
 ただそれだけの、甚だ曖昧なそして簡単な話だったが、なにか割り切れない不純なものが感ぜられた。
 高石老人は眉をひそめた。素知らぬ顔で碁に耽ってる洋介に呼びかけて、こういう噂があるがと、佐竹の話をはじめた。
 洋介はそれを中途で遮って、ぼんやりした微笑を浮べて言った。
「あの時は僕もそこにいましたよ。よく知っています。」
「うむ、そこで、真相はどうなんだ。」
 洋介はまた微笑した。
「もっとも、僕も少し酔っていました。山口は、たしかに、ビール一本飲みました。それでもう、金が無くなったかして、出て行ったようです。ばかばかしい話ですよ。第一あの店は僕がやってるのではなく、僕はただ客の一人にすぎません。」
 そして彼はまた碁盤の方に向いた。
 相手の井野老人は高い声で笑った。
「つまらん話だね。だが、そこにはいつでもビールがあるのかね。それなら、僕もこんど案内して貰おう。」
「ええ、いつでも御案内しますよ。」
 ところで、実は、そのつまらぬ一件が起った時、私もそこに居合していたのである。――洋介も一緒に、私達は奥の小部屋で焼酎を飲んでいた。そこへ、山口が一人ではいって来て、土間の方の卓につき、ビールを註文した。大田梧郎がビール瓶と小皿物を出した。山口は視線を静かにあちこちへ移して、なにか探索してるようだった。ビールを一本飲んでしまうと、煙草をふかしながら、通りかかった大田に声をかけた。
「おい、ビールをもう一本くれ。」
 卓上に帽子を置き、身を反らして、天井に煙草の煙を吐いた。
 誂らえの品は手間取った。山口は叫んだ。
「おい、ビールだ。」
 その時、洋介が立ち上って土間の方へおりて行った。なにかただならぬ様子なので、私も後に続いた。
 洋介は真直に山口の方へ行き、卓上の帽子をぱっと払い落した。山口が先ず帽子を拾って、それを片手につっ立ったのへ、洋介は浴びせた。
「一本でたくさんだ。出て行きたまえ。」
 彼は左手を伸ばして、山口の上衣の襟を掴んでいた。そして右手を腰の後ろにやっていた。その右手に、瀬戸の重い灰皿を握りしめていた。私はその手首を捉えた。灰皿はすぐ彼の手を離れて私の手に移った。その時には、山口はもう数歩押しやられていた。そして山口はちょっとよろめき、表へ出て行った。
 洋介は元の席へ戻ってきたが、眉をしかめて黙っていた。大田が出て来て、殆んど[#「殆んど」は底本では「殆んで」]無表情の顔で言った。
「ビール一本、損しちゃいましたよ。」
 洋介も殆んど無表情で言った。
「あいつ、探偵気取りでいやがる。」
 それだけのことであった。然し、そのことは、洋介の隠れた一面を私達に啓示してくれたのである。
 その時のことを、もう洋介は忘れてしまったかのように、ぼんやり微笑んでいた。
 高石老人は詮索しなかった。
「それでは喧嘩にもならん。だが、君もあまり飲んでばかりいないで、研究所の方にも身を入れるんだな。」
 彼に反して、研究所の事務員として真剣に働きたいと言っている者があるのを、高石老人は打ち明けた。――魚住千枝子のことだった。今迄はただ、室の掃除や図書の整頓だけをしていたが、今後は、ほんとの事務員として働きたい。カードの整理をし、まだ備えつけてない必要図書の調査をし、研究員の希望事項を訊し、その他出来るだけのことをしたい。研究所がもし高石邸へ移転するようなら、毎日そちらへ出勤したい。その代り、すっかり事務員になりきるために金額の多少を問わず、手当を支給して貰いたい……。
 この最後のことを、高石老人は賞讃した。
「多少に拘らず手当を貰って、事務員として責任を持ちたいというのが、わしの気に入ったよ。無給でもよろしいというところを、千枝子さんはそうでない。あのひとならりっぱに仕事をしてくれそうだ。」
 何事にも一個の見解を提出する癖のある佐竹は、皮肉な調子で言った。
「手当の金など必要でない者が、手当をほしいと言いますよ。そしてほんとに必要な者は、ほしくないような顔をしますね。」
「然しこの場合は少し違いますね。」と吉村が言った。「手当を貰うことによって責任の自覚を自分に強いるという、心構えの問題でしょう。」
 そして二人の間に、近代人の逆表現と自意識とが、暫く話題となった。
 その時、当の千枝子がはいって来た。話が途切れて、人々の眼がちらと彼女に注がれ、瞬間にまた外らされた。彼女はそれを感じてか、頬から血の気が引いて透明になった。がすぐに、その頬を赤らめて、彼女は洋介のところへ行った。
「あの……小母さまが、呼んでいらっしゃいます。」
 洋介は碁盤から眼を挙げて、彼女を見つめた。なにかふしぎなものをでも見るようで、そして少し長すぎた。それから答えた。
「ええ、すぐ行きます。」
 高石老人は、ウイスキーのグラスを取り上げて、千枝子に言った。
「今あんたを、研究所の事務員として披露してたところだ。」
 千枝子はもう平然として静かな笑みを顔に浮かべた。
 洋介は黙って出て行った。
 房江は寝間着の上に丹前をひっかけて、寝床のそばに引きよせた机にもたれていた。洋介がはいってゆくと、そのはれぼったいような瞼を静かに持ち上げた。睫毛が白っぽい感じに見えた。
「いかがですか。」と洋介は言った。「横になっていらっしゃらなければいけませんよ。」
「いえ、もう殆んど宜しいんですけれど……。」
 彼女は何か考えてるようだった。洋介は待った。
 房江は遠慮ぶかそうに話した。――皆さんに食事を出すつもりでいるが、ごくつまらないものしか出来そうにない。急なことだし、いつも世話になってる野崎さんに頼むわけにもゆかない。千枝子と二人であれこれ相談していると、千枝子がふいに言い出した。自分にたくさん月給をくれるのなら、うまい御馳走を作ってあげるのだが、どうせお粗末な月給だろうから、お粗末なものでよかろうと、笑っている。それで房江はびっくりした。事務員として真面目に研究所の仕事をすることになったとは、聞いていたが、月給のことは、まだ聞いていなかった。而も、千枝子の方から高石さんに頼んだとのこと。そうなってくると、これは家の体面にかかわる。家族同様にしている千枝子が、僅かのことに月給を請求するなどとは波多野家の恥ではあるまいか。それが事実かどうか、高石さんに確かめてほしいし、事実なら取り消して貰いたい。千枝子はただ、心配なことはないとばかり言って、さっぱり要領を得ないとのことだった。
 洋介はその話に興味なさそうに言った。
「それはもうきまってることですよ。そして家の恥でもなんでもないことですよ。」
「わたしには分りません。」と房江は彼の象を見つめた。
 洋介は暫く黙っていたが、突然激しい調子で言った。――それでは、家の生活はいったいどうしているのか。地所を売った封鎖の金を内密に現金に代えたり、野崎さんに物乞
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