先方で犬が吠えた。その声はまもなく止んだ。女は立ち止ってしまった。俺は敷石を離れて草の中に出た。肩を並べると、女も歩きだしたが、ぐんぐん俺の方へ体を押し寄せてくる。やがて女も、敷石を離れて、俺の方の草の中にはいってくる。女の体とコンクリート塀との間に俺は挾まれて、歩くことも出来ない。女の腕をかかえると、女は腋をせばめて俺の手をしめつけた。
 ふざけた奴だ。その気なら征服してやれと、ばかな敵愾心を俺は起した。立ち止って、あいてる方の手で女の肩を抱くと、女は俺の胸に顔を埋めてくる。それを抱きかかえるようにして、顔を寄せると、女も顔を挙げた。ゆっくりした冷たいキスだった。ゆっくり時間がかかったのは、女が離れなかったからだ。
 そのキスの間、俺は女の肩越しに、向うの地下室の古板囲いを眺めていた。そこに、淡い三日月の光りがさしていたのである。その光りが、そしてその奥の地下室が、俺たちの有様を嘲笑ってるようだ。俺はなにか胸がむかついてきた。
 俺は女を静かに押しやり、黙って歩きだした。坂を下りきって、女と別れた。
「またね。」と女は言った。
 丸顔の肥った女だが、その頬は血色がよいだけで、林檎のよ
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