ってゆくどころか、引っ返そうとした。とたんに、転んだのである。
 それらの声は、勿論、慴えた神経から来る幻覚であったろう。だが実は、俺にもそういう経験があるのだ。
 母がまた疼痛に苦しみだし、頓服の鎮痛剤があいにく無くなっていたので、夜分ながら、医者のところへ薬を貰いに行った。猫捨坂を通るのが一番の近道だ。俺は平気でその急坂を上っていった。そして薬剤を貰い、帰りにも平気で坂を下りかけた。ふと、あの洞窟めいた地下室の古板囲いに、眼をやった。その中を、以前、俺も覗き見たことがある。嫌な気がして、眼を外らすと、あの時の異臭に似たものが鼻の先に漂ってくる。強い鼻息をして、坂を半ば下りきった時、なんとなくほっとした気持ちの隙間に、聞えたようだった。
「早く行け、早く行け。」
 俺は坂を駆け下りた。別に恐怖は感じなかったが、醜怪なものがじかに肌に触れた感じだ。
 母は苦しそうなうめき声をたてていた。その腰のあたりを姉が撫でてやっている。
「早かったわね。お母さん、頓服がきましたよ。すぐあがりますか。」
 母は頷いて、意味のよく分らない声を出した。姉は薬をオブラートに包み、吸呑の水で服用さした。どこ
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