。」
「なあに、ばかな坂だ。」
コンクリート塀に手を支えて、彼は徐々に上ってきた。坂を上りきると、意外にも元気にすたすた歩きだした。広い道に出て、それから電車通りへ、彼は迷わず歩いて行った。
俺は少しずつ後れ、彼が電車通りへ出る頃、黙って後に引き返した。これ以上彼とつきあうのは無意味だ。
猫捨坂で彼が嘔吐したことは、俺にふしぎな印象を与えた。嘔吐したのはあの男ではなく、誰か別な奴ではなかろうかと、一抹の疑念が持たれるのだ。いつだったか、この坂のコンクリート塀によりそって、誰かが佇んでいるので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。また、病院側の中段に、誰かが腰掛けているので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。忘れていたそういう記憶が、今になって蘇ってくる。確かに、この坂には、目に見えない人影がうろついている。そいつが嘔吐したに違いない。
坂の上に立つと、彼方の門灯の明りがかすかにさしてるだけで、御影石の敷石がほんのりと白み、コンクリート造りの崖とコンクリート造りの塀との間に、陰湿な気が深く淀んでいる。
俺は立ち止った。
すぐそこに、椎の木の茂みが闇の中に更
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