かも知れない。
 夜更けの帰りにS――の歩廊で、見知りの顔が一つ私には出来るようになった。いつのまにその顔を見知ってしまったのか、私はその初めを少しも覚えていない。そういう初めの無い知り合いというものは全く妙なものである。私と彼とは、名前も住所も身分も互に全く知らない他人であるのに、顔だけはよく知り合っていた。S――駅で一緒になると、互に一種の親しい眼付きを交わした。電車の中でも、友人同志のように親しく相並んで腰を掛けることが多かった。上野で下りると、互にどちらの方向へ向って帰ってゆくかをはっきり知っていた(私は山下を右へ、彼は真直に広小路の方へ)。それでいて言葉を交えたことは一度もなかった。
 痩せ形の背の高い男で、いつもよく雪駄《せった》をはいていた。眉が濃く短く、光りの鈍い円みを帯びた眼には何処か低能らしい趣きがあったが、高い鼻と小さな口とは上品だった。その口には小供らしい愛嬌があって、屹度舌ったるい声が出そうに思われるのだった(そしてそれは実際であった)。眼鏡もかけていず、口鬚も伸していなかった。そしてそういう顔立を、下細りの頬の輪廓がとり巻いていた。※[#「臣+頁」、第4水準
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