た。そして遠い安らかな旅に出たような落付きを感じた。寒い闇夜をついて走る響きが、一層車室の中の明るみを淋しい夢のような気分にした。停車場へ電車が止る毎に、幾人かの人が出たりはいったりした。皆静かに黙っていた。車の軽い動揺に全身の筋肉が心地よくたるんで、眼がぼんやりしてきて、私はついうとうととすることもあった。電車が上野に着くと、私は立ち上るのが名残り惜しいような気がした。それから十五分許りの道を大抵歩いて帰った。家の人達はいつも寝てしまっているので、私は自分で表の戸締りをした。
 そういうことが、いつのまにか私の生活の一つの様式となってしまっていた。私はそれを週に三回位は欠かさずくり返していた。然しそのことだけは、私の日々のうちでも少しも退屈でない部分だった。碁盤の上の勝負には絶えず変化があった。電車の中で逢う人の顔も絶えず異っていた。夜更けの帰途には今にも何か変ったことが起りそうな気がした。人生とは云わないが、私の心のうちに澱んでいる退屈な憂欝を、一変してしまうようなことが何か起りそうな気がしていた。
 そしてまた実際私は、変なことに出逢ったのである。否、変なことをしたという方が適当
前へ 次へ
全44ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング