だ、べらぼうめ。」
「まあいいからこっちへ来いったら。」そう云って彼はその男を待合所の中へ引張って行った。
「俺はこのままでは帰らねえぞ。」
「ああ、いいから少し静にしろよ。」
「よし。そう事が分りゃあ神妙にするってよ。さかずきを、だ、押えて伏せてきりぎりす、はたおり虫に……。」と彼はまた歌い出した。
 私は村瀬と顔を見合した。何だかひどく馬鹿にされたような気もするし、自分自身が馬鹿げても見えた。私達は黙っていた。
 電車が来ると、かの二人も乗ってきた。どうしたのか酔っ払った男も静にしていた。彼はクッションの上に横向きに腰掛けて、頭をふらふらさしながら眼を閉じていた。
 その夜、私達はどちらからいい出したともなくまたカフェーに寄った。そして麦酒を飲んだ。それから次のような約束をした。これからは初対面の者にでも必ず一人にだけは話しかけてみること、ただ一言だけでも話をすればそれでいいこと。
 私達は少し酔っていた。そして心の底には淡い憤懣の情を感じていた。何故だか分らないが、かの酔っ払いの職人が何かを私達のうちに投げ込んでいったのは事実だった。
 その後は、愉快な火曜と金曜とが続いた。私と
前へ 次へ
全44ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング