彼はつと足を返した。高く動悸してる胸を押し鎮めていると、頭の中に罩めていた靄が消えて、過去の全景が遠くまで見渡された。凡てが空《むな》しかった。空しい中にただ一つ、吉川の黒い影がつっ立っていた。彼は幽鬼に出逢ったような慴えを感じた。それから脱することが、やがて凡てから脱することのように感ぜられた。彼はきっと唇をかみしめて、何物にとも分らない漠然とした反抗の気勢に、心の底迄|身内《みうち》を戦かせた。
せめて隆吉に一目逢いたいという気が起りかけるのを、彼は自ら押し潰した。そして日当りのいい方向へと、当もなく歩き続けた。眼には熱い涙が一杯|溜《たま》っていた。
四十五
水曜の晩、周平は八時半頃蓬莱亭へ行った。もっと時間を後らして、皆が酔ってしまった頃行きたかったが、待ってるのが堪えられなくなった。
彼は二三度その前を往き来して、それから下腹に力を籠めながら、突進するような気で中にはいっていった。階下の室には数人の見知らぬ客が居た。彼は真直に帳場のお主婦《かみ》さんの方へ行って、今迄の借りを全部払った。それからゆっくり階段を上っていった。二階に行くと、広間の方に居た一人の
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