字下げ終わり]

 周平は夢中に読んでしまってから、暫く惘然とした。いつもの保子と違って、いやに丁寧な調子だった。けれどやがて、其処に真剣なものが感ぜられてきた。彼ははっと我に返ったようになって、また手紙を読み返した。手紙の一句々々が胸をしめつけてきた。
 それは、歔欷を通り越した一種の幻惑に似た気持だった。黒目の大きな澄みきった眼付が、じっとこちらを見つめていた。彼は如何に深く保子を恋していたかを知った。また、その保子が如何に自分から遠く離れてしまったかを知った。そして、其処で頭の働きが止って動かなくなった。
 彼はぼんやり起き上った。機械的に食事をした。それから外に出た。世界が異ったような気がした。黄色い光りが一面に空から落ちていた。この上もなく静かだった。
 彼は日向《ひなた》を選んで、長い間ぼんやり歩き廻った。いくら行っても、日の光りが十分でないように思えた。ふと気が付くと、いつしか保子の家の前に出ていた。横田禎輔という檜板の表札《ひょうさつ》が彼の眼を惹きつけた。彼はそれを初めて見るかのようにじっと眺めた。
 と突然、彼は息を凝した。女中が腕に何か抱えて二階の縁側に出て来た。
前へ 次へ
全293ページ中285ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング