割下を注《さ》していってくれた。
「君と酒を飲むのは暫くぶりだね」と村田は縁側の柱によりかかりながら云った。
 周平は彼の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。あの頃短い五分刈だった村田の髪は、今は長く伸されて後ろに掻き上げられていた。苦しい境遇に陥った自分の身が顧みられた。それと共に、横田氏等の同情がしみじみと感じられてきた。
 彼は突然云い出した。
「君、このまま黙っていていいだろうね。」
「何を!」
「横田さんと奥さんとに……。」
「いいさ。好意は黙って受けるものだよ。君は余り神経質でいけないんだ。僕だったら、初めっから奥さんにも横田さんにもお礼なんか云わないね。」
 受けるものは黙って受けよ――場合によっては貪っても構わない――というのが村田の主義だった。或る好意を受ける時、昔は礼を云うのが道徳だった。現代では、礼を云わないのが道徳なのだ。現代人の微細な神経は、施す好意を無条件で黙って受けられる方が、より多く施し甲斐を感ずるものだ。受ける方から云えば、口先の感謝で心の負目《おいめ》を軽くしようとするのは、卑怯な態度である。
「君のようにいやにこだわるのは、全く時
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