浴せてやったが、一向通じなかったこと、お主婦さんはいつもあんな仏頂顔《ぶっちょうづら》をしているけれど、相当の家柄だったのが零落して苦労してきた人だけに、非常に思いやりがあって、自分のような我儘者にも種々親切にしてくれること……など。然し彼女は、自分の身の上に関することは少しも話さなかった。
 周平はそれらの話をいい加減に聞き流しながら、心あってかなしにかそういう態度をしてる彼女に対して、一種の憤懣を覚えてきた。それが一転して、このまま彼女を手離したくない気持に陥っていった。然し今更どうしていいか分らなかった。苛ら苛らしてるうちに、順天堂の前まで来てしまった。
 彼女はぴたりと足を止めた。
「私あなたの下宿の前まで送ってゆくわ。」
 その眼を彼はじっと覗き込んだ。
「ねえ!」
 彼は危く我を忘れかけようとしたのを、強いて堪《こら》えた。
「いけないよ」
「そう。じゃあ蓬莱亭でね……。」云いさして彼女は帯の間から彼の金入を取り出した。「あの時預ったもの、お返ししとくわ。空っぽかも知れないわよ。」
 差出された金入を受取ると、彼は自分でも訳の分らない感情に駆られて、眼に涙がにじみ出てきた。
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