。
その時彼女は初めて彼に唇を許した。……が、余りに冷かな無感心な態度だった。一寸閉じてまた開いた眼と、濡れた海綿にも似た一種のはがゆい触感とが、彼がその咄嗟に感じた全部だった。彼は心の底から冷たくなっていった。黙って歩き出した。彼女も黙ってついてきた。
狭い横町をぬけて、電車通りへ出ようとする時、彼女は云った。
「もう何時でしょう。」
彼は返辞をしなかった。
「帰りましょうか。」
「ああ。」と彼は機械的に答えた。
街灯の光りの中に出て、彼女はじっと彼の顔を眺めた。彼は顔を挙げなかった。
「私一寸買っていきたいものがあるから、一緒に来て頂戴よ」
彼は広小路の角までついて行き、洋菓子屋の前で暫く待たされた。それから、牛込まで帰るのだという彼女と、なおお茶ノ水のあたりまで歩くことにして、薄暗い通りを、斜に順天堂の方面へつきぬけていった。
彼女は手の菓子折をぶらぶらさしながら、いろんなことを饒舌《しゃべ》りだした。いつも一人でやって来て、黙って強い洋酒を飲んでゆく青年があったが、それが自殺してしまったこと、或る女中が人の妾になって、着飾った鷹揚な態度で遊びに来たので、盛んに皮肉を
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