「いやよ、訳を云わなきゃ。」
「何の訳?」
じっと眼を見合したが、彼女の瞳はたじろぎもしなかった。周平は眼を伏せて歩きだした。歩きながら云った。
「今日はもう帰してくれよ。一寸気にかかることを思い出したんだ。急ぐんだ、非常に。また来るよ。その時すっかり話すから。嘘は云わない。勘定もこの次にするから、宜しくやっといてくれ。さ早く。くれなきゃ、帽子は預けとくよ。」
彼は一寸待ったが、彼女が何とも云わなかったので、そのまま扉の方へ歩み寄った。扉を開けて薄暗い廊下に出ると、彼女は後から駈け寄ってきた。
「今晩あなたは酔ってるから、真直に家へお帰んなさい、ねえ。」
何を云ってるんだと彼は思ったが、その瞬間に、彼女はつと彼の手を執って握りしめた。いやに冷たいかさかさした掌《てのひら》だったが、それが却って彼の心に強い響きを与えた。彼は涙ぐましい心地になって、その手を強く握り返した。そして、差出された帽子を引ったくって、飛ぶように階段を下りていった。
外の寒い風に吹かれると、足がふらふらしてるわりに、頭がはっきり冴えてきた。いつのまにか深みへ陥っている自分自身が、驚いて顧みられた。彼は長い間
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