ちに清く懐いていたかった。然し、何か奇蹟でも起らない限りは、それはどうにもならないことではあった。――他の一つは、「労働組合と労働者」の飜訳を粗雑にしないことだった。金のために濫訳を事とするのは、自分の精神を堕落させることのように思われた。然しながら、訳筆は遅々《ちち》として進まなかった。不案内な内容をひねくれた文章で書いてある上に、少しも気乗りがしなかった。悲壮な心に痛快な響きを与える文句が所々に出て来ないでもなかったが、彼はその思想を研究してみるだけの余裕がなかった。倦怠の方が先にたった。そして、月に二三十枚の原稿を野村の所へ届けて、渡される僅かな金で満足していた。大変立派な訳だと向うの人が喜んでいた、そういう野村の言葉だけがせめてもの慰藉だった。
 斯くて、彼の二つの矜《ほこ》りも、単なる矜りの外には出なかった。彼の生活は益々困難になっていった。横田の家から貰う報酬と飜訳の僅かな稿料とでは、どうにも支えようがなかった。水谷からは、其後思い出したように三十円送ってきたきりで、ふっつりと便りもないそうだった。
 下宿の払いもたまった。方々のカフェーへもちょいちょい借りが出来た。それで
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