した。
 可なり長く待たされた後、薬を貰って外に出ると、もう薄暗くなりかけていた。彼は知らず識らずに足をゆるめた。慌しいようでしめやかな夕暮のなかを、何処までもゆっくり歩いて行きたい気がした。保子の前へも出たくなかった。頭の中に描いていた幻が、現在の保子の姿に蔽われつくして、ただやるせない憧憬の気持のみが、彼のうちに残されていた。その気持がどういう方向を取るか分らないのを考えると、彼は云い知れぬ胸の戦《おのの》きを感じた。と共に、保子に対して無力である自分自身が、不安になり恐ろしくなった。
 それでも、彼はいつのまにか家へ帰ってきた。保子は隆吉の枕頭にぽつねんと坐っていた。彼がはいっていくと顔を挙げた。
「早かったわね。……私慌ててたものだから、あなたまで騒がしてお気の毒ね。御免なさい……何だかがっかりしてしまったわ。」
 そう云って彼女は、静かな無心の眼付で周平を見た。
 隆吉はすやすやと眠っていた。
「お食事の支度が出来ました。」
 そう女中が云って来た時、保子は床柱に軽く上半身をもたせかけて、膝をくずしながら大儀そうに坐っていた。その膝を重たそうに引きずって、隆吉の枕頭に匐い寄っていき、一寸その額に掌をあててみ、その顔をじっと眺め、それから立ち上った。
 食事の間、女中が隆吉の側についてることになった。食卓の上には麦酒が一本のっていた。
「私も一杯飲んでみよう。」と保子は云って、ぽつりと小さな皺を眉根に寄せながら、なみなみと注いだコップに唇をあてた。
「あちらでは、どんなに動き廻っても平気だったけれど、東京に帰ってくると、身体がだるくて仕様がないわ。やはり海岸はいいのね。……あなたも少し行ってきちゃどう?」
 そして彼女はまじまじと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。
 そういう彼女には、身体の線がなよなよとくずれて、持て余したような柔かな肉体があった。それを彼女は横坐りにした腰の上にくねらして、片腕をまくってみせたりした。
「こんなに真黒になってよ。海にはいった初め二三日のうちは、ひりひりして仕方なかったけれど、それからむやみと痒くなって、掻く度に薄い皮がむけるのよ」
 肩の上で一線を劃して、それから奥は真白に海水着の跡がついていた。
「奥さんは泳げるんですか。」と周平は尋ねてみた。
「ほんの少しばかり。でも泳ぐのは第二で、波にもまれてるのがいい気持よ。それから砂浜の上に寝転んだり、細帯一つで室の中にごろごろしたりして、それは呑気よ。帰って来ると、帯をちゃんとしめたりしていなけりゃならないので、何だか窮屈で仕様がないわ。身体がだらしなくなってしまうのね。……こんな坐り方なんかして、御免なさい。」
 そして彼女は白い歯を見せて微笑んだ。
 実際彼女のうちには、妙に締りのない明けっ放しの所があった。以前は、如何に距てない温情を示す時でも、其処に一種の清らかなつつましさがあったけれど、今では、その清らかさが変に濁りを帯び、つつましさがしどけないものに被われていた。
 周平はその変化に眼を見張り、次には眼を伏せてしまった。頭の中に描いていた彼女は、いつしか夢のように消え失せて、凡てをさらけ出したような露《あらわ》な彼女が、余りにまざまざと眼の前に在ったのである。一寸手を伸したらすぐに触れそうな彼女だった。彼は不安な誘惑を感じた。恐ろしくなった。明日あたり下宿に帰ろうかと云い出してみた。
「あら、どうして?」と保子は云った。「横田が帰るまでいてもいいんでしょう。ね、そうなさいよ。私が帰って来たからすぐに出て行くなんて、変じゃないの。」
 その何気ない最後の言葉が、彼の自由を奪ってしまった。自分の心の中にある疚しいものを、一挙にほじり出されたような気がした。そしてその晩床の中で、彼は長く眠れなかった。いろいろ考えあぐんだ末、最後に辿りついたものは、保子に恋したのだ! という一事だった。今迄自ら押隠していたが、もはやどうにも出来なくなった、その一事だった。
 彼はしみじみとした涙と苛立った憤りとを、同時に感じた。今後のことを考えると、暗い穴にでも陥るような気がした。

     十八

 翌朝、周平は遅く迄寝ていた。眼が覚めた時は、障子にぱっと日の光りがさしていた。眠ってるうちに女中が雨戸を開いてくれたものらしい。彼は室の中のだだ白い明るみを暫く眺めていたが、眼の底が熱くなるのを感ずると、頭から布団を被ってしまった。自分は保子を恋したのだ! 昨晩ふと考え及んだその一事が、しつこく頭に絡みついてきた。凡てがその一事に圧倒され終るような気がした。
 迷霧の中を辿ってるような心地で、いつしかうとうととしてると、階段を上ってくる足音が遠くに聞えた。それがはたと止んで、あたりがひっそりとなった。長い間のようだった。と俄
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