らしく、E子というのは、吉川の許を逃出した英子とかいう女のことらしかった。
 周平は一気に読み終って、初めてほっと息をついた。妙に胸騒ぎがした。手の紙片をじっと眺めた。或る部分はごく念を入れて書き誌してあり、或る部分は一気に書きなぐってあった。ただ、何処にも殆んど添削がなかった。頭からじかに紙上へ落ちたままのものだった。冷静らしい文句の下に、強いて抑えつけられた感情の渦巻きが見えていた。それが周平の胸に直接に響いてきた。彼は悪夢に似た迷濛の中に引入れられるのを感じた。
 その上、不思議な偶然が彼の気にかかった。保子の日記を探すつもりだったのが、脱却したと思ってる吉川のことの中へ、突然投げ込まれてしまったのである。一種の奇縁というより外はなかった。彼は怪しい運命の糸を自分の身に感じた。それがなお彼の心を脅かした。
 それにしても、吉川の日記――恐らく最後の日記――が、どうして横田の手許にあるかも不思議だった。何か人知れぬ事実があるらしく想像せられた。
 周平はその日記を、何度も繰返し読んだ。然し、圧搾せられた感情の波がひしひしと感ぜられるだけで、村田から聞いた以上の具体的な事実は、何一つ見て取れなかった。ただ、吉川の死は英子と別れてから一ヶ月よりずっと後であるということと、その死は自殺とも病死とも云えないものであるということだけが、ほぼ明かになった。
 周平は吉川の日記を幾度もくり返し読んだ後、更にそれを手早く写し取った。それから用心のために、写したものは自分の下宿へ行ってしまって来た。ひどい精神の疲労を覚えた。そして、何だかこのままでは治りがつきそうもない気がした。それでも構うものかと思った。ぶつかるものにぶつかっていけと心を定めた。
 彼は二階の室に寝転んでばかり日を過した。朝といわず夕方といわずすぐにうとうととした。かと思うとはっと眼を覚した。頭がぼんやりしていた。それが夜になると、いやに頭のしんが冴え返った。吉川のことが自分の心の中のことであるような気がしてきた。その半ば自棄的な気持の底から、彼はいつのまにか保子のことを考えていた。眼の前に彼女の姿を浮べていた。遠い過去の恋人ででもあるかのように、その姿を彼はじっと眺めた。しみじみとした哀愁の念に囚えられた。そしては、またはっと我に返った。
 この哀愁の心と、何物にもぶつかっていけという心と、そのどちらが本当の自分であるかを彼は迷った。どちらも本当の自分であるとすれば、も一つその上に立つべき何かがある筈だった。それを彼は見出し得なかった。しまいには絶望的な気持になった。
 そこへ不意に、全く不意に、保子が隆吉を連れて帰って来た。

     十七

 それは綺麗にうち晴れた日の午後だった。周平は二階の室で、午睡とも云えないほどのうとうととした気持で、聞くともなく蝉の声に耳をかしていた。すると俄に、玄関に俥夫の威勢のいい声や女中の頓狂な声がして、次に保子の落着いた張りのある声がした。周平はそれと気づかないうちに立ち上っていた。階下《した》にかけ降りてみると、僅かばかりの手廻りの荷物の中に、保子が隆吉の手を引いて立っていた。周平は一寸挨拶の言葉も出なかった。
「只今」と保子は云った。それから周平の顔を見つめた。「何を変な顔をしてるの? ……でも喫驚したでしょう。急に帰ることになったものですから、知らせる隙がなかったのよ。」
「先生は?」と周平は漸く尋ねた。
「お後《あと》。隆吉が病気なものですから、私だけ先に慌てて帰って来たのよ。」
 然し見た所、隆吉は大した病気でもなさそうだった。ただ、動く度にひどく咳込んだ。保子はその上に屈み込んで、苦しかないかと聞いたりした。
 座敷に床を敷いて隆吉は寝かされた。熱を測ると八度七分あった。かかりつけの医者へ女中が電話をかけに行った。帰りに氷を買ってきた。氷枕をさしてやった。――隆吉は初め軽い風邪にかかったのだそうである。それが変にこじれて、気管支加答児となり、高い熱が出た。或る日などは唾液に血が少し交っていた。肺炎にでもなりはすまいかという恐れがあった。然し非常に辺鄙な土地なので、いい医者が近くになかった。病気に神経質な保子は、兎に角東京へ帰ったがいいと云い出した。それで、横田だけ後に残って、保子と隆吉とが至急に帰ってきたのだそうである。
 医者は都合して早く来てくれた。丁寧に診察した。病気は気管支加答児だけで、それも大したことはないそうだった。吸入に湿布に、熱があれば氷枕、過激な運動を避けること、それだけが手当の全部だった。
 周平は医者の家へ薬を取りに行った。途中で郵便局に寄って、病軽し安心せよと横田へ電報をうった。医院へ行って処方箋を出すと、顔の大きな頭の禿げた薬局生が小窓から覗いて、御病人は如何ですかなどと云った。周平は厭な気が
前へ 次へ
全74ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング