。凡ての物が閃きながら揺いでいる。赤や青や緑の光線が縦横に入り乱れている。距離が妙に縮まって見える。気圧が極度に低くなったような心地。
 歩いていると、膝関節に怪しい感じがする。足の運動が、非常に力強いわりに重々しい。変に自分の意志とそぐわない。いつ棒立ちになって動けなくなるか分らない気がする。
 夕方、精神的な漠然とした苦悶を覚える。酒をやたらに飲む。酔ってるうちに意識を失ってしまった。
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十一月十三日――終日胸がむかむかする。
十一月十四日――甚だしく精神の疲衰を覚ゆる。しきりに眠い。そのくせ、横になっても眠れない。妄想が相次いで起ってきて、いつまでも止まない。はっきりした推理が出来ない。頭脳の一部が痲痺したのではないかと思う。
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 心が暗澹たる影に包み込まれる。服薬を続ける。
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十月十八日――怪しい誘惑が働きかけてくる。高い絶壁の上に身を置く時には、絶壁の下に身を投じてみたらという誘惑――というより寧ろ感情が、しきりに動いてくるものだ。その感情を見つめていると、遂にはそれに引きずり込まれてしまう。これは実際に経験しなければ分らないことだ。俺は今死の絶壁の上に立っている。一歩の差で下に落ちる場所に居る。落ちたら……という感情がしきりに動く。それを見つめることは最も危険なのだ。日記をつけるのは間接にそれを見つめることであり、この白色の溶液を弄るのは直接にそれを見つめることなのだ。日記をも薬液をも投擲しようかと思う。
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 死に、もし努力がいるならば、その生は無意味だ。生に、もし努力がいるならば、その生は無意味だ。死せんがための若しくは生きんが為めの努力ならば、まだしもよい。然しながら、死そのもの若しくは生そのものが一の努力となるならば、その死や生はつまらないものである。
 俺は努力の生を続けたくはない。また努力の死をしたくはない。生きるのが自然であるならば生き、死ぬのが自然であるならば死ぬばかりだ。俺は今、死にたくも生きたくもない。自然のままに任せたい。
 こういう状態は最もいけないものであることを、俺は知っている。然し何かに興味を繋ぐことの愚かさを、つくづく感じる。俺は誰をも愛しない、誰をも憎まない。
 それにしても、自分自身に対する呪わしい気分が時々湧き上って来るのは、何としたことであろう?
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十一月十九日――〇・〇〇三を二回服用する。
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 何のためであるかを自ら知らない。
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十一月二十日――今日は変な日である。空が晴渡ってそよとの風もない。凡てのものがひっそりと静まり返っている。水底にもぐったようである。それなのに、光りと音響とだけが浮き出して見える。宛も自分だけが光りと音との波間に浮んでるがよう。軽い眩暈と恍惚の情とが相次いで起ってくる。時々嘔気を催す。然し精神は清朗明晰を極めてるがように感ぜらるる。
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 母がしきりにこちらを窺ってるのが分る。俺は真正面から母の顔を見返してやる。その白い額から小皺を刻んだ頬へかけて、石のような感じがする。不思議だ。隆吉を抱いてる彼女の姿は、丁度子供を抱いてる石地蔵のように見える。隆吉の頭がまたいやに固そうに見える。お母ちゃんという言葉を知らないで彼は幼時を過してしまうのかと、ふと考えてみたが、それも何処かへ飛び去ってしまう。後はしいんとしている。眩しいほどの光りと音響との世界だ。光りと音との波に溺れて、凡ての事象がひっそりと凝り固まっている。
 殆んど終日黙って暮す。酒も飲みたくない。
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十一月二十四日――発熱。脈搏不整。四肢の筋肉に軽い痙攣。
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急性薄脳膜炎の症状を少し調べてみる。中途で気づいて止す。何の気兼ねぞ!
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十一月二十五日――俺は凡てを知っている。俺は死ぬのではない。
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 怪しい幻想になやまされる。
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     十六

 以上が、洋罫紙に細字で認められてる全部だった。それは吉川の手で書かれたものに違いなかった。中に出てくる人物で、Y子というのは保子のこと
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