に楽で、脈搏は弱いけれど強い。
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少し不安になる。或は中毒の前駆期ではないかと思う。暫く薬を止さなければいけない。
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十月二十七日――夜、書物を読んでみたが、どうもよく頭にはいらない。頭のしんに石でもつまったような心地。虫の声が耳について煩い。煩い余りに、ぼんやり聞くともなく聞いていると、階下《した》で低い話声がする。Y子の声のようだ。そんな筈はないと思っても、どうしてもY子らしい。余り不思議なので、遂に堪りかねて降りていった。母が一人でぽつねんと針仕事をしている。誰か来てはいなかったのですかと聞くと、母は妙な顔をして誰も来ないと答える。
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その後で、二階にじっとしてると、また低い話声がする。Y子のようであれば、E子のようでもある。余り変なので、再び降りて行ったが、やはり誰も来ていない。
そういうことがも一度あった。気の迷いにしては余り何度もだから、試みに母を二階に連れてきた。何にも聞えないと母は云う。なるほど話声は聞えない。此度は母を階下にやって、自分一人二階に居たが、もう何の話声もしない。その代り、俄に騒々しく虫の声がしだした。
そのことが変に心にかかる。一人で居るのが恐ろしい気がする。すぐに床を敷いて貰って寝る。眠れない。しまいに隆吉を自分の布団の中に抱き入れる。隆吉はすやすや眠っている。いつも隆吉を抱いて寝る母が、淋しそうに夜着の襟から顔を出して、こちらをじっと見ている。素知らぬ顔をして隆吉の方へ屈み込んだが、涙が出て来て仕方がなかった。
俺はもうY子のことを何とも思ってはいない。E子を愛している。憎いだけに猶更愛している。
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十一日八日――暫く日記を止すつもりだったが、また書き続けることにする。これは初め、自分の身体に対するストリキニーネの反応だけを、ごく簡単に誌し止めて、後の参考にするつもりだったが、余計なことばかり多くなってるのに気づいて、十日余り中止してみたのである。それを再びなぜ始めるかは、俺自身にも分らない。今俺の頭の中には、互に矛盾する無数のものが錯綜している。
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今月になって五回、〇・〇〇二に当る分量を服用した。反応微弱。
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十一月九日――皮下注射と内用との身体に及ぼす影響の差が、よく分らない。今日少し調べてみたけれど、やはり分らない。然し、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]部の皮下注射が弱視に効果あるとすれば、少し分量を増した内用も、やはり効果あるべき道理である。その上俺は元来胃腸が非常に悪い。薬の内用に依って、胃腸粘膜の鬱血を散じてその働きを佳良ならせるならば、一挙両得というべきである。その上俺は、可なりアルコールに害を受けている。もしこの薬によって呼吸中枢を興奮させ得るならば、同時に三得となるわけだ。
十一月十一日――視力の減退が著しい。試みに眼鏡屋へ行ってみたが、近眼の度が進んでるのではなかった。物の表面をしみじみと見ることが出来ない。輪郭も凡てぼやけている。
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薄暗い世界だ。何もかもぼんやりしている。気が苛立ってくる。一寸したことでも癪に障る。何かに脅迫せられてるような心地。
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十一月十二日――考えまいとしても、いつのまにか考えている。而も何等まとまった考えをしてるのではない。頭の働き方が全く機械的になつている。種々の射影がいつも同じような姿で浮んでくる。俺の頭はそれを機械的に取り入れて、また機械的に吐き出してしまう。永久につきない反応作用を営んでるのと同じだ。
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Y子もE子も俺にとっては過去の人物だ。母と隆吉とは二人だけで生きてゆける。それを俺はどうしようというのか?
敢然と歩いてゆくべき途が一筋ほしい。現在の停滞した状態をこね起すべき梃がほしい。何よりも先ず、頭の中だけに狭められたこの息苦しい世界を、豁然とうち拡げることだ。視力を恢復することだ。精神的窒息は最もたまらない。
夜、〇・〇〇四に当る分量を服用する。
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十一月十二日――朝、〇・〇〇四をまた服用する。
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異常な感覚を覚ゆる。天地が躍り立つようだ。空がこの上もなく澄みきっている
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