反抗
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)保子《やすこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)猶更|悄《しょ》げて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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     一

 井上周平は、隆吉を相手に、一時間ばかり、学課の予習復習を――それも実は遊び半分に――みてやった後、すぐに帰ろうとした。其処へ保子《やすこ》が出て来て、心もち首筋から肩のあたりへしなを持たせた様子と、かすかに開いた唇から洩れる静かな含み声とで、彼を呼び止めた。
「井上さんちょいと!」
 例のことだな、と周平は思った。そして、月の最終の日だということに妙な憚りを置いて、すぐに帰ろうとした自分の態度が、自ら卑屈に感じられた。
 彼は少し顔を赤めながら、保子の後について茶の間へ通った。
「今日《きょう》は急ぐんですか。」
「いいえ、別に……。」と周平は口籠《くちごも》った。
「そんなら、ゆっくりしていらっしゃいよ。いま珈琲でもいれますから。」
「ええ」と彼は答えたが、一寸極りが悪かった。そして、腰を立てようか落着かせようかと思い惑っていると、真正面から保子の言葉が落ちかかった。
「あなたはまだ、妙な遠慮をしてるのね。」
 小さくはあるが、奥深く澄み切った眼で、じっと顔を見られると、周平は度《ど》を失ってしまった。仕方なしに眼を伏せて、頭を掻いた。
 保子は更にいい進んだ。
「何も遠慮することはないでしょう。隆吉の面倒をみて下すってるんだから、私共からそのお礼を差上げるのは当然じゃないの。もし私共の方で忘れたら、進んで云い出して下さる位でなければ、いけないわよ。それなのに、月末だからといって、すぐに逃げ出そうとしたりして、ほんとに可笑しな人ね」
 最後の言葉に少し浮いた調子があったので、周平は漸く落着くことが出来た。
「でも、金のことは何だか厭ですから……。」
「だからあなたは、お金に縁がないのよ。」
 そう押被《おっかぶ》せておいて、彼女は調子を変えた。
「国許から送って来るだけで、どうにか間に合いますか。」
「ええ。然し全くの所、どうにかという程度です。」
 彼は冗談のようにして云った。
「でもねえ、」と保子はやはり前の調子で云い続けた、「もし不自由なことがあったら、いつでも仰しゃいよ。隆吉のことをお願いしたのだって、ただであなたを補助するのも悪いから、ほんの名目だけだと、横田もそういうつもりですから。……一体あなたは、余り遠慮深すぎていけないわ。これから、すっかり明けっ放しで、遠慮なしにしましょうよ、ねえ」
 しみじみとした感傷に囚われようとするのを、周平はじっと堪《こら》えた。顔を上げると、保子の清い露《あらわ》な眼はちらと瞬いて、長い睫毛の奥に潜んでしまった。彼は一寸心の置き場に迷って、前にあった珈琲椀を取り上げた。何だか黙って居れなかった。
「さんざん小言《こごと》を云っといて、珈琲一杯ではひどいですね。」
「だからお土産《みやげ》をつけてあげるわ。」
 保子は帯の間から、紙に包んだものを取出した。周平は一寸躊躇したが、彼女の笑顔に促されて、黙ってそれを受取った。そしてすぐ立ち上った。
「落さないようになさいよ。」
 無雑作に懐へねじ込むのを見て、保子からそう注意された言葉を、彼は上の空で聞き流して、外に出た。
 空は晴れていた。西に傾いた晩春の陽《ひ》が、咽っぽいような光りを一面に大地の上に送っていた。
 或る曲り角で、向うから駈けてきた俥を避ける拍子に、枳殼《からたち》の生籬の刺で、彼は手の甲を少し傷つけた。血のにじんだ所へ唾をつけると、ひりひりと痛んだ。それが妙に快い気持だった。
 彼は保子のことを考えていた。姉妹のない彼にとっては、保子は姉――美しいやさしい姉であった。と同時にまた、人間的に師事している横田の夫人であった。彼女の親切を思う時、彼はしみじみと力強い気がした。彼女の保護がある以上は、あと二年足らずの大学選科も、無事に終えられそうだった。
 下宿へ帰って、彼は先ず袴を取ってから、思い出したように懐の紙包みを探った。「御礼」と小さく書かれた女文字を一寸眺めた。そして中を開いた。十円紙幣が二枚はいっていた。
 彼は軽い驚きを感じた。
 初め、週に一回ずつ隆吉の学課をみてやることになった時、謝礼は月に十円ばかりあげる、というのが横田の言葉だった。そして実際、月末に二回、周平は夫人から十円ずつ貰ったのだった。それが此度に限って、而も不意に、二十円になっているのだった。
 周平は、二枚の紙幣を机の上に置きながら考え込んだ。――五円紙幣と十
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