円紙幣とが、何かの拍子に間違えられたのではあるまいか、と考えた。もしそうだったら、余分は当然返さなければならなかった。それを黙って着服するわけにはいかなかった。然し……その考えは、どうもぴたりと彼の気持へこなかった。――或は、好意から倍額にしておいて、自分に喜ばしい驚きを与えるために、わざと何にも告げられなかったのではあるまいか、とも考えた。この推察の方が彼の気持へぴたりときた。元々、隆吉の学課を見て貰うというのも、自分を補助する口実とするための、横田の方の好意なのであった。「横田もそのつもりですから、」と保子から今日も云われたのだ。……考えてるうちに、あの時の保子の調子が、彼の頭にまざまざと浮んできた。何の気もなく聞き流した、「落さないようにしなさいよ。」と言う言葉が、今になって頭に響いてきた。
 彼は感謝の余り、涙ぐましい心地になった。
 然し机の上の紙幣を金入にしまう時、彼は急にその手を止めた。
「このままではいけない!」
 向うの好意だと推察するならば、一方にまた、向うの誤りだと推察出来ない筈もなかった。そう思いついた時彼は、前者だときめてかかった自分の気持に、或る狡猾さを感じた。次には、試されてるのではないかという疑懼の念も起った。彼は厭な気分になった。
「兎に角返しに行こう。それから先は向うの言葉次第だ」と彼は自ら云った。
 いつのまにか日の光りが薄れていた。今からでは夕食の時刻にぶつかりそうだった。彼は一度立ち上った腰をまた下ろした。それにまた、横田の不在の折に保子一人へ話したかった。もし保子一人の好意から出たことだったら……。
「馬鹿!」と彼は自ら自分に浴せかけた。甘っぽい空想にまで陥りかけた自分自身が、なさけなかった。つまらないことに斯くまで乱される自分の心が、なさけなかった。
 愈々最後の決意をしたあの日のことを、彼は縋りつくようにして想い起した。

     二

 それは、朝から糠雨の降る佗しい日だった。周平はまた終日、このまま学業を止したものかどうかと、数日来の問題を考え耽っていた。早く決定しなければならない必要があった。
 夜になって散歩に出た。先輩の野村の意見をもまた尋ねた。帰ってきてからも、夜遅くまで一人で考えた。しかし何れとも決しかねた。寝てから考えることにした。着物のまま布団の中にはいって、ぼんやり天井を眺めていた。頭が疲れきって、いつのまにかうとうとしたらしい。そして夢をみた。
 ――誰だか分らないが、親しい四五人の者と一緒だった。狭い室で食事をしていた。変な獣が一匹前に蹲っていた。その胸から腹へかけて毛が※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]り取られていた。それに箸をつきさすと、薄い肉片がわけなく取れた。「旨《うま》い肉だ、」と誰かが云った。獣は間もなく、胸から足へかけて、骨ばかりになった。それが、生きた猫だった。「可哀そうだからこれ位にしておこう、」とまた誰かが云った。猫は起き上って、胸と足との肉をむしり取られたまま、のそりのそりと歩いていった。
 それから、皆は出かけることになった。
 石の段を上ると、あたりが真暗だった。曲りくねった坂道が続いていた。その道を歩いていった。皆も一緒だということは分っていながら、真暗なのでその姿は見えなかった。そのうちに、道の両側から幾人もの乞食が出て来た。不思議にその姿ははっきり見えた。皆筋骨の逞しい男だった。半ば裸体で、滑っこい餅肌《もちはだ》をしていた。それが、袂を捉え、手首を取り、はては首っ玉にかじりついて来た。どうにも出来なかった。
「石で殴りつけるがいい、」と誰かの声がした。で、両手に大きな石を拾って、それでやたらに殴りつけた。幾つも敷居のようなものを跨いで進んだ。それを一つ越す毎に乞食の群に出逢った。両手の石を振り廻して追っ払った。
 書後に[#「書後に」はママ]、石段があった。それを下りると、鉄のような重々しい扉にぶつかった。扉が少し開いていて、向うに仄かな明るみが見えていた。その扉を出ればもう大丈夫らしかった。
 ふと気がつくと、二人の乞食が後からついて来ていた。一人は、顔から肩へかけて一面に怪我をしていた。一人は力の強そうな大きな男だった。その大きな男が云った、「仲間の者に傷をつけた以上は、このまま通しはしないぞ」
 その男が乞食の親方らしかった。あたりを見廻すと、闇の中に多くの乞食が潜んでるらしかった。恐ろしくなった。懐から紙入を取出した。何程与えたらいいかと考えてると、闇の中から傴僂《せむし》の乞食が出て来て、両方の膝頭に、掌のような形をした足枷を投げかけた。それが膝頭にぴったり吸いついて、歩けなくなった。「復讐だ、」という声がした。今にも多くの乞食が出て来そうだった。恐ろしかった。扉からさす明るみを横目で見ながら、しき
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