りに、身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]く度に、身体が益々闇の中に沈み込んでいった。
 ……そこで彼は夢からさめた。乞食の餅肌の感触がなお身体中に残ってる気がして、不気味で仕様がなかった。いきなり飛び起きて、窓を開いた。
 外には、仄白い明るみがあった。東の空に薄紅い雲が漂っていた。空の星が変にぎらぎら輝いていた。木立や大気が、総毛立ったようにざわめいていた。夜明けに近いのだった。
 彼は窓にもたれたまま、それらの景色をじっと眺めた。云い知れぬ感情が身内に戦いてきた。それをなお押えながら、じっとしていた。未明の空と地とを前にして、夢の中の猫と乞食の群とが、何かの象徴のように考えられた。
 彼は東の空が白んでくるまで、そのまま身を動かさなかった。そして、如何なる困難を忍んでも学業を続けようと決心した。決心がつくと、初めて我に返ったかのように飛び上った。窓や戸を一杯開け放った。室の中を歩き廻った。それから机に向って、漢口《はんこう》の水谷へ手紙を書いた。その店へ行くことを断り、なお哲学の研究を続ける決心を告げた。その後で彼は、大学へ選科の入学願書を認めた。

     三

 ――その時のことを、周平は今思い浮べた。それと共に、水谷からの僅かな金で暮してきた過去のことを、想い起した。
「甘っぽい空想に耽るべきではない、」と彼は自ら云った。そして力強くなった。
 翌日の午後、彼は金を返しに保子を訪れた。
 保子は勝手許《かってもと》の方で何か仕事をしていた。一寸手が離せないからというので、彼は暫く待たされた。
 縁側に腰をかけて、ぼんやり庭の新緑を見ていると、前日からあんなに気を揉んだことが、何だか馬鹿々々しく思えてきた。暫くして保子が出て来た時、彼は軽い調子で云い出した。
「昨日、計算を間違えられはしませんでしたか。」
「何の計算なの」と彼女は問い返して、彼の顔をじっと眺めた。
「間違ったとお分りにならなけりゃ、私の方が得《とく》することだから黙っといてもいいんですが……。」
 周平はそう云って微笑《ほほえ》んだ。
「何のことなの。はっきり仰しゃいよ」
「あててごらんなさい。」
「さあ、何でしょうね?」と彼女は小首を傾《かし》げた。
 彼はその顔を見やった。そして、彼女の微笑んでる眼付を見て取った時、あべこべに向うから揶揄《からか》われてることを感じた。彼は率直に云い出した。
「昨日《きのう》、お礼の包みの中に二十円はいっていましたよ。それで余分の半分だけ、返しに上ったんです。五円紙幣と十円紙幣とを間違えられたのではありませんか。」
「そのことで今日《きょう》わざわざいらしたの」
「ええ」
「あなたは嘘つきね」
「いえ、実際二十円あったんです。」
「そんなことじゃないわよ」と保子は云った。「昨日あなたは、お金のことは口にするのが厭だと云っといて、今日はお金のことでわざわざ来るなんて、嘘つきだわ。それに、人があげたものを返しに来るなんてことが、あるものですか。」
 変に調子がきびしかったので、周平は呆気《あっけ》にとられてしまった。何が保子の気に障ったのか、彼にはどうしても合点がいかなかった。彼はただ黙って、彼女の顔を見ていた。
 周平が黙ってるのを見て、保子は止めを刺すようにずばりと云ってのけた。
「あなたが気持の上で嘘をついたり、変な他人行儀をしたりするんなら、私の方からもそうしてあげるわ。」
 何という無茶な云い方だろう、と周平は思った。と共に、それが何だか嬉しくもあった。然し黙ってるのも余りに意気地がなかった。相手の考えにはおかまいなしに、自分の思う所だけを云ってしまわなければ承知しないというような、保子の一徹な眼の光りから、周平は視線を外らしながら、種々に弁解し始めた。――今迄十円だったのが、今度俄に二十円になっていて、而も一言の断りもない以上は、勘定の誤りかも知れないと考えるのは至当であること、金銭問題を口にするのは固より嫌いではあるが、それを口実にして不当の利得を着服するのは、人格的に下劣な行いであること、一言の断りさえあれば、その好意を喜んで受けるだけの雅量はあること、受けるものなら正当に受け、受けてならないものなら立派に返すのが、本当だと思ってること、そういう自分の行為を非難されるわけはないこと、などを彼は廻りくどい調子で説いた。そして最後につけ加えた。「私はどう考えても、あなたから叱られるような訳はないと思っています。」
「いつ私があなたを叱って?」と保子は云った。
「でも腹を立てて非難するのは、叱るのと同じじゃありませんか。」
「私ちっとも腹を立ててやしないわ。けれど、こちらの気持をそのまま受け容れて貰えないのは、不快なことじゃなくって?」

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