それはそうですけれど、いくら気持は分っていても、はっきりした言葉がなければ困ることもあるんです。」
「お金のことがそうだと云うんでしょう。だからあなたは素直でないのよ。お金ということにいやにこだわるのは、あなたに僻《ひが》みがあるからよ。」
そう云われてみれば、彼は一言もなかった。困難な生活をしてる余り、金銭に対して妙に神経質になるのは、一種の僻みからであるかも知れなかった。然しそればかりでもない、と彼は考えた。そして云った。
「然し金銭問題は、一番厭な不快を招くことがありますから。」
「それがあなたの僻みよ」
そう押被《おっかぶ》せられると、彼は口を噤むより外仕方がなかった。黙ってると、保子は暫くしてこう云った。
「分って?」
彼は顔を挙げた。自然に澄みきった彼女の眼とやさしい顔とが、すぐ前に在った。それをじっと眺めながら、彼は咄嗟に云った。
「では黙って貰っておきます。」
「え?」
小さな眼が一杯見開かれてきょとんとしていた。周平は云いなおした。
「分りました。」
一方へ持っていかれた心がまた他方へ引戻されたというように、彼女は中途半端な顔付で、一寸上目を見据えたが、やがて両方とも腑に落ちたらしく、じっと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。「馬鹿な人ね、」とその眼付が云っていた。
彼ははぐらかされたような気持になった。口先だけで云ってみた。
「奥さんくらい気むずかしい人はない。」
「そう。」と彼女は気の無い返辞をした。
彼は口を噤んだ。いやに考え込んでしまった。
四
それは、謎を投げかけられたような気持だった。
「奥さんくらい気むずかしい人はない、」と彼が独語めいた調子で云ったのは、表面からの言葉だった。裏面から云えば、「奥さんくらい無頓着な人はない、」となるのであった。相手の正当な申出を頭からけなしつけたのが、気むずかしいのだった。相手の考えを眼中に置かないで独り合点をしてるのが、無頓着なのだった。其処に、周平の眼に映じた保子の二方面があった。そしてこの二方面は、実は同一性格の両面に過ぎなかったが、それが親切とか好意とかの衣に包まれて、一つの事柄に就いて一人の者に対して同時に現わされたために、変な不調和を示したのだった。周平は二つの心に相対したような感じを受けた。一つの心は、思いやりのない得手勝手な冷かなものだった。も一つの心は、個人と個人との境界を無視した温い抱擁的なものだった。
「自分に対する保子の心は、二つのうちの何れなのかしら?」と周平は考えた。考えようによって、どちらにもなりそうだった。彼はその間の去就に迷った。さりとて、両方だときめるのは、今の場合彼にはつらかった。彼は保子から、冷淡か温情かの何れかで遇して貰いたかった。峻烈な批判を加えられるか、或は温く抱擁されるか、何れかでありたかった。
「それは兎に角、自分は忘恩者でありたくない、」と彼は、問題をそのまま抛り出して、別な結論に辿りついた。そして、夫人へはこのままでいいとして、横田氏へは一言感謝の意を申して置きたかった。
周平は、水曜の午後少し遅く出かけていった。
横田は、週に四回商科大学で語学を講じていた。然し彼は元来文学者だった。折にふれて新聞雑誌に、外国文学の紹介をすることなどもあった。未来は批評を以て立つつもりだった。それで彼の周囲には、文学を愛好する青年の小さな群が出来ていた。その連中がいつとはなしに、水曜の午後から晩へかけて、横田の書斎に集ることになっていた。水曜が彼の最も隙な日だったから。
周平は他の日にわざわざ訪問したくなかった。実は、隆吉の学課をみてやる月曜なら最も好都合だったが、その日横田は夕刻まで授業があった。それで、最も行き易い水曜を選んだ。
門をはいって玄関に立った時、彼は先ず其処に在る下駄を見廻した。幸にも客は一人か二人位らしかった。彼は安心した。
「丁度村田さんが来てるのよ」と保子から云われた。
彼は先ず保子や隆吉を相手にするつもりだったが、村田なら、その方へ行かざるを得なかった。
横田と村田とは、寝転んで将棋をさしていた。二人共周平の方に一寸眼を挙げて「やあ。」と云ったきり、また盤面を見つめた。周平はその側に足を投げ出した。村田の方が少し上手だった。横田は負けを諦めかねて、幾度もさそうとした。
周平はつまらなくなって、両手を頭の下にあてがいながら、仰向に寝転んだ。窓から青い空が見えていた。その狭い四角な青空の中に、白い断雲がぽつりと現われてきては、またすぐに飛び去っていった。風が少し出ていた。周平は軽い苛立ちを覚えた。立ち上って、書棚の隅から外字雑誌を取ってきては、その※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵を眺めたりした。
前へ
次へ
全74ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング