やがて、横田は将棋の駒を抛り出して云った。
「今日はどうもいかん。またこの次にしよう。」
「とうとう兜をぬぎましたね」と村田は得意げに云った。
それから二人は、周平の方に話しかけた。周平は浮かぬ顔付をしていた。
村田が便所に立った時、横田は周平の顔をまじまじと眺めて尋ねた。
「何だかいやに考え込んでるようじゃないか。どうしたんだい?」
丁度よかった。村田が座を立った僅かな間に、軽く問題を片附けてしまおう、と周平は思った。向うの言葉に頓着なく、いきなり云い出した。
「いつもお世話にばかりなっていまして済みません」
横田は大きな眼をくるりと動かした。
「なに、お互いっこじゃないか。」
「それに、」と周平は云い進んだ、「こんどなんかは、余分に謝礼を頂いたりして、申訳ない気がします。」
「ああそうだったかね。妻が何か気を利かしたんだろう。……まあいいさ、そんなことは。黙って貰っとけばいいじゃないか。」
周平は変な気がして、横田の顔を見上げた。横田は眼を外らしていた。右手の指にはさんだ煙草の煙を天井の方に吹かしながら、鴨居の額面をぼんやり眺めていた。
「それでは……、」あなたは御存じなかったのですかと云いかけて、周平ははっとした。そんなことを云ってはいけない気がした。そして、中途で切った言葉の続きに迷った。それを無理に云い進んだ。「余り勝手すぎるようですから……、」一応奥さんにと云いかけて、彼はまた口を噤んだ。どうにも仕方なくなった。可なり間を置いてから、漸く云ってのけた。「一寸お礼だけ申しときたいと思ったのです。」
額に汗が出て来た。横田からじっと見られてるのを感じた。そして更に狼狽してきた。横田は黙っていた。
「つまらないことを気に懸けないがいい。」と暫くして横田は云った。
周平は何とか云って、その場を、否自分の気持を、とりつくろいたかった。然し言葉が出なかった。
そこへ、村田がやって来た。
「今日は余り人が来ませんね。」と村田は坐りかけて云った。
「ああ。」と横田は気の無い返辞をした。
周平はじっとしてるのが苦しくなった。それかって、すぐに座を立つのも猶更変だった。横田と村田とが新劇壇のことを話し始めたのを、彼は側で黙って聞き流しながら、ぼんやり室の中を見廻していた。一間の書棚とその横の本箱とにぎっしりつまってる書物を、見るともなく眺めていると、一種の威圧を受けた。それが更に先刻の狼狽の上につみ重なってきた。しまいには、淡く自棄《やけ》の気持にまでなった。
それにしても、あの事を横田が知らないらしいのは不思議だった。たとい保子の心から出たことだとしても、横田には一応相談があってる筈だった。平素彼等夫婦の深い親和を見馴れている周平には、どうも腑に落ちなかった。そして、自分がへまなことを云い出したのではないかという、疑懼の念が起った。
彼は捨鉢と不安との気持に囚えられた。夕食の御馳走になっていけと勧められるのを、むりに断って辞し去った。村田も一緒に立ち上った。玄関へ保子が送ってきた。周平はその顔をちらと見たが、いつもの通りこだわりのない表情だった。
五
周平は村田と肩を並べて、暮れかけた街路を歩き出した。
風が可なり強くなっていた。南の方からむくむくと起ってきた黒雲が、空の半ばを蔽っていた。夕暮の色と雲の影とが一つになって、不気味な薄闇を地上に漂わしていた。二人は肩をすぼめながら歩いた。
周平は変に気懸りになってきた。保子が好意を以て内密で取計らってくれたことを、横田の前にさらけ出したのではあるまいか、というような気がした。もしそうだとすれば、保子に対して非常に済まない訳だった。その上、悪い結果になりそうだった。彼はも一度、前からのことを頭に浮べてみた。保子の態度を考えてみても、また横田の態度を考えてみても、二人で相談の上なされたことだったかどうか、全く見当がつかなかった。
彼は推察に迷った。そして、村田の意見を聞いてみようかと思った。村田は長い間横田の家《うち》と懇意にしていたし、初め周平を横田の家に連れていったのも彼だった。此度のことを話しても差支えなさそうだった。このまま自分一人で気まずい思いをしているよりも、彼の意見を聞いた方が、何かの場合――そんなことはあるまいけれど、もしあるとすればその場合――のためになりそうだった。
村田は、風に吹飛されそうな帽子を気にしながら、黙々と歩いていた。周平はその方を横目で窺いながら、思い切って云ってみた。
「おい、君の意見を一寸聞きたいことがあるんだが。」
「何だ?」
村田は足をゆるめて、周平の方をふり向いた。
「実は一人で考えあぐんでることなんだが、内密にしてくれなくちゃ困るよ。」
「ああ大丈夫。……悪い女にでも引っかかったというのかい。」
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