に、喫驚するほどすぐ近くに、張りのある保子の声が響いた。
「井上さん、まだ寝てるの。お起きなさいよ。もう何時だと思って?」
周平は黙っていた。
保子は周平の枕頭の押入をあけて、何かをしきりに探しているらしかった。暫くすると、彼女は押入の襖をぴたりと閉めた。
「井上さん、お起きなさいよ。」
「ええ。」と周平は思わず答えてしまった。
一寸間が置かれた。また保子の声がした。
「いやだわね、布団を被ってしまって。加減でも悪いんですか。」
布団が少し引きのけられた。周平はされるままに任して、顔を横向けながらちらと保子の方を見上げた。
「あら、」と保子は叫んだ、「泣いてるのね、どうしたの。」
その言葉で周平は初めて、自分の眼や頬に涙がたまってるのを気づいた。するとまた、後から涙が出て来るような気がした。咄嗟に寝間着の袖で眼を押し拭いながら、じっと保子の顔を眺めた。その起きたばかりの清い素肌の顔の中には、黒目がちの澄みきった眼が、朝の光りを受けて静かな輝きを見せていた。それがちらと瞬いたかと思うと、刺すような鋭い光りに変った。
「どうしたというの、え?」
眉根がぴくりと動いて、彼女の顔は妙に冴え返った。それがまざまざと、周平の眼の前に寄せられてきた。周平は眼を外らした。
「いやな夢を見たんです。」と彼は答えた。
「嘘仰しゃいよ。いやな夢に泣く人があるものですか。」
「いやな悲しい夢です。」
保子は何とも云わなかった。然しその眼は嘘仰しゃい! とくり返していた。そのままで、静に時がたっていった。周平はくるりと寝返りをしたが、次にはぱっとはね起きた。起きてから、どうしていいか分らなくなった。縁側に出て呼吸してみた。後ろからじっと眺めてる保子の眼に、気持を囚えられて仕方がなかった。どうにでもなれという気でふり向いてみた。
「もう起きてもいい時よ」と保子は静かな調子で云った。「余り寝坊してるから、いろんなことを考えていけないんだわ。顔でも洗ってごらんなさい。気がさっぱりするかも知れないわ。」
「ええ」と周平は機械的に返辞をした。
保子は彼の眼の中をじっと覗き込んで、それから立ち上って、黙って階下へ下りていった。手に空気枕を持っていた。
周平はその後姿を、見ぬようにして見送りながら、ぼんやり立ちつくしていた。彼女の姿が消えると、怪しく胸が騒いできた。そして布団の上に身を投げ出した。
開け放した縁側から、暖い日の光りが室内に射し込んでいた。彼は長い間その光りに浴した。額のねっとりした汗が乾いて、何もかもが空しく思われてきた。一抹の影も含まない澄みきった大空が、寂しく静まり返っていた。その懐に周平は自分自身を投げ出した。地上に存在することが無意味に頼りなく感ぜられた。自分の涙を見て保子が何と思ったか、保子に恋したことが如何に不貞であるか、そんなことはもうどうでもいいという気になった。自分自身が惨めなら惨めでいい。凡てをあるがままにあらせるがいい。これからどうなろうと、そんなことは神の知る所だ。
周平は立ち上って、着物を着代えた。耳を澄したが、誰も呼びにくる気配《けはい》もなかった。彼は寝床を片付けて階下に下りていった。顔を洗う時、水で頭を冷そうとしかけたが、それも面倒くさくなって止した。
「よかったら御飯にしましょう。あなたを待ってたのよ。」
そう保子は云ったきり、遠慮深そうに口を噤んでいた。
然し周平は、彼女の眼がしつこく自分に向けられてるのを感じた。感じても平気だった。自分自身を極端に惨めな絶望的などん底に置いて、そこから空嘯いてみた。何にも恐ろしくなかった。場合によっては、保子の前に赤裸な自分の心をさらけ出してもいい、と彼は思っていた。さらけ出してどうしようという考えはなかった。たださらけだしてしまったらどうにかなりそうだった。彼はまともに保子の顔を見返した。
「井上さん、」と遂に保子は云い出した、「あなた先刻、悲しい夢を見たと云ったわね。どんな夢?」
周平は一寸答えに迷って黙っていた。
「夢なら話したっていいでしょう。え、どんな夢なの、仰しゃいよ。」
「夢のことなんかどうでもいいんです。」と周平は答えた。
「でも、その夢のことで泣いてたじゃないの。」
「あれは嘘です。」と周平は吐き出すように云ってのけた。
保子は軽く微笑んだ。一寸間を置いてから云った。
「とうとう白状してしまったわね。だからあなたの嘘は罪がなくていいわ。」
周平は俄に眼の底が熱くなるのを感じた。涙を落すまいとして歯をくいしばった。すると保子は、しみじみとした調子で云った。
「だけど、悲しいことなんか、本当はみんな夢にすぎないものよ。時たって後で考えてみると、夢をみたような気がするものよ。泣き足りないといつ迄も頭にひっかかるけれど、思うまま泣いてしま
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