うと、それでさっぱりして夢から覚めたような気になるわ。涙は夢から覚める方便のようなものよ。悲しいことがあったら、涙を押えないでお泣きなさいな。私、泣いたことがないなんていう人は大嫌いだわ。」
周平はぼんやり保子の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。彼女が本気で云ってるのかどうか、彼にはさっぱり見当がつかなかった。いい加減に弄ばれてる気もしたし、真面目な同情を寄せられてる気もした。
「散歩にでもいっていらっしゃいな。気が晴れていいかも知れないわ。」と保子は云った。
周平は云われるままに何の気もなく立ち上った。然し立ち上るともう外へ出たくはなかった。そして二階へ上りかけたが、ふと気にかかって、隆吉が寝てる室へはいってみた。
隆吉は氷枕を止して空気枕で寝ていた。熱は七度五分以下に下っていた。頭を少しずらせ加減に横向けて、周平の方をじっと眺めた。
「気分はどう?」と周平は尋ねた。
隆吉はそれに答える代りに、更にまじまじと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。周平はその視線を避けて、枕頭の方に坐った。
静かだった。高く昇った日が外を一杯照りつけてるのが、更にその静けさを助けた。静かな上に余りに明るかった。隆吉の高い凸額《おでこ》が瀬戸物のようにこちこちして見えた。窶れてほっそりとした頬の中に、高く薄い鼻がすっと通っていた。周平はそれを見てると変な気になった。その凸額に拳固を喰わせその鼻を折り挫いてやりたい気がした。何で隆吉に対してそんなに腹を立ててるのか、自分でも分らなかった。
隆吉はいつのまにか涙ぐんでいた。周平はそれに気づいたが、黙ってしつこく坐っていた。
そこへ保子がはいって来た。彼女は周平の方へ云った。
「大変いいようですよ。この分ならじきに起き上れるでしょう。」
彼女は隆吉に薬をやった。隆吉は仰向けに寝返って、水で拭いて貰った指先に白い散薬をつけて、それを何の味もなさそうに嘗めた。それから湯を一口飲んで、また力なく枕に頭を落した。乾燥した低い咳を五つ六つ続けてした。
「吸入をしましょうか。」と保子は云った。
隆吉は頭を振った。
「そう、ではも少したってからにしましょう。」
それきり皆黙ってしまった。
周平は室の中を見廻したが、その眼はいつしかまた隆吉の上に据えられていた。何とも云えぬ憎しみの情が次第に湧き上ってきた、惨めな存在だという気がした。吉川の手記が頭の中に蘇ってきた。この子のために吉川はどんなに苦しんだろう、この子が生きてる間は吉川の苦しみも生きて残るのだ、保子の身にも暗い影がつき纒うのだ、とそんなことを周平は思った。彼の胸には、吉川と隆吉とは父と子であるということがぴたりと来なかった。孤児であるということも、彼の心を少しも動かさなかった。何故か? と彼は自ら反問してみた。答えは得られなかった。そして、じっと隆吉の寝姿を見ていると、不当な存在だと思えてきた。その不当な存在に対して、復讐してやりたいような気持になっていった。……そういう暗い気分に浸っているうち、彼は二三度保子からじっと眺められたのを感じた。隆吉を踏みにじって保子の前に身を投げ出したかった。坐ってるのが苦しくなってきた。それでも腰を落着けていた。如何にも執拗に坐り込んでるのが我ながら感ぜられた。そのためになお立ち上れなくなった。
「井上さん、」と突然保子が云った、「どうしてそう変な顔をしてるの。」
云われて始めて周平は、自分が泣き出しそうな顔をしてるのに気づいた。何気ない答えをしたかったが、その言葉が見つからなかった。まごまごしてる所を、保子からはじっと、隆吉からはちらと、両方から見られたのを知った。彼は咄嗟に心にもないことを云った。
「吸入をしてあげましょうか。」
「そう。」と保子はすぐにそれを引取って、隆吉の方へ屈み込んだ。「井上さんが吸入をして下さるから、おとなしくするんですよ。ね、いいことね。」
隆吉は彼女の方を見ないで、周平の顔をじっと見て、それから首肯《うなず》いた。周平は機械的に吸入器の用意をした。
隆吉は床の上に坐って、真白なタオルに包まれた。タオルから顔だけ出して、口を開きながら待っていた。保子がその後ろから軽く身体を支えてやった。周平は机の上に据えた吸入器を、隆吉の方へ向けた。食塩水の噴霧《きり》がさっと注ぎかかると、隆吉は咳き入った。それを一生懸命に押えつけたらしく、蒼い頬にかすかな赤味がさした。その上へ水滴が一面にたまっていった。睫毛の先の水滴は、瞬きをする毎にたらたらと頬へ流れた。唾液の交った水が、唇からすうっと糸を引いたように垂れてくるのを、保子がコップで受けてやった。隆吉はその中にあってじっとしていた。顔も渋めずにひたすら噴霧《きり》を吸い込むことにつとめてい
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