た。あんぐりうち開いてる※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が、呼吸の度にかすかに動いて、虚弱そうな薄い高い鼻が、蝋細工のように静まり返っていた。
その姿を、周平は小憎らしく思った。次には不気味に感じた。余りに生に執着しすぎてる、というように感じた。それに対抗するような気で、やたらに噴霧を注ぎかけてやりたくなった、後はアルコール・ランプの芯《しん》をかき立てた。コップの食塩水が少しでも減ると、すぐに缶からなみなみと注いだ。その盛り上った水面に、明るい障子が小さく映っていて、潮が引くように徐々と中低くなっていった。
噴霧筒の水滴を受くる下のコップが一杯になっても、周平はまだ吸入を止そうとしなかった。保子が側から云った。
「下のコップが一杯になったからもう沢山でしょう。」
周平は黙ってアルコール・ランプを吹き消した。
隆吉は顔を濡れ手拭で拭いて貰って、また床の上に横わった。呼吸が非常に滑かになったらしく、胸の奥で静かに息をしていた。
「よかったわね。」と保子は云っていた。「こんなに沢山したんだから、もうじきに起き上れるようになりますよ。」
室の中は湯気が籠ってむし暑かった。周平は障子を開いて縁側に出た。
外は一面に日が照りつけていた。蝉が鳴いていた。時々何処からともなく吹いてくる風に、木の葉が重々しく揺れて、それがぎらぎら輝くように見えた。庭の隅にある睡蓮の鉢に、緋目高《ひめだか》が二匹静かに浮いていた。鰭だけを気忙しなく動かしながら、いつまでも同じ処に浮いていた。
井上さん、というような声がした。暫くするとまたはっきりその声がした。周平は目高から眼を離して、後ろを振り返った。保子が室の中から彼を呼んでいた。
「退屈しのぎに、隆吉へ何か噺《はなし》でもして下さいよ。」
「さあ……。」と周平は口籠った。
「どうせぼんやりしてるんだから、丁度いいじゃないの。」
「だって私は噺なんか一つも知らないんです。」
「神話みたいなものでも何でもいいわよ。」
周平は何とも答えなかった。話してやるものかと心で思っていた。そしてじっとしていた。然しもう保子は催促しなかった。隆吉の枕頭に半身で寝そべって、雑誌の小説を読み始めていた。周平は暫く待った後、妙に心が苛立ってくるのを感じて、ぷいと二階へ上ってしまった。
十九
一人になって考えると、なぜ隆吉に対してああ憎しみの情が湧いてくるのか、周平は自ら惑った。隆吉の存在を邪魔にする理由はいくら考えても正当には見出せなかった。彼は隆吉に対する気持を置き換えようとつとめた。
然しそれが出来なかった。病気がだいぶよくなった隆吉は、背を円くして日向の縁側に蹲まりながら、露《あらわ》な鋭い眼付をして周平の方を見上げた。周平が和らいだ顔付をしてると、外に出たいとか植物園や動物園に行きたいとか云って謎をかけた。周平が眉をしかめてると、いつまでも黙っていた。或る晩、外には雨がしとしとと降っていた時、隆吉は突然こんなことを云い出した。
「井上さんはいつまでも家に居てくれるの?」
周平は黙っていた。
「そうすると僕は嬉しいんだけれど……。」
「なぜ?」と周平は問い返した。
「叔父さんがそう云ってたよ、井上さんはいろんなことを知ってるから、話をして貰うがいいって。」
「僕より叔父さんの方がいろんなことを知ってるよ。」
「叔父さんは駄目だ。ちっとも相手になってくれないんだから。」
「じゃあ叔母さんがいるじゃないの。」
隆吉はなんとも答えないで、周平の顔を見上げた。周平は胸の奥で不安な気がした。
「僕は隆ちゃんがすっかりよくなったら、下宿へ帰るつもりです。」と彼は冷かに云った。
「いやだ。」と隆吉は駄々をこねるように叫んだ。「僕叔母さんに頼んだの、井上さんがいつまでも家に居てくれるようにって。すると叔母さんは、あなたから井上さんに頼んでごらんなさいって云うんだもの。……僕一人ぽっちだからつまんないや。」
そういう彼の変に大人じみた凸額を、周平はじっと眺めた。そして其処に保子が来ると、隆吉は今迄の話を忘れてしまったかのように、けろりとした顔付で黙り込んだ。周平は騙されたような気がした。反感が起ってきた。その為に保子へも妙に口が利けなかった。彼は苛立ってくる心持を懐いて、二階の室に逃げて行くの外はなかった。
然し二階に行っても、保子と隆吉とを置きざりにしてきたことが気にかかって、永く落着けなかった。耳を澄すと、家の中はひっそりとして、軽い雨の音があたりを支配していた。彼は室の中を歩き廻った。狭苦しかった。隣りの書斎へもはいっていった。そしていつのまにか彼は、本箱の抽斗を見い見い歩いていた。そこに吉川の日記がはいってるのだった。悲痛な文字がありありと頭に映じてきた。やり場のない憤激の念に駆ら
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