れそうな心地がした。
 彼は自分の心が恐ろしくなって、外に散歩に出てみた。冷たい雨を含んだ夜が真暗だった。道が泥濘《ぬか》っていた。寂しい空しい心地でまた帰ってくると、自分一人になるのが堪らなく佗しかった。
 彼は保子と隆吉との所へ行って、皆が寝るまで黙って其処に坐っていた。海のことなんかを隆吉と話している保子が、時々彼の方へ言葉を向けて、彼の様子を窺うように眺めても、彼はその視線の前に自分自身を投げ出して、うわべを取繕おうとしなかった。拠り所のない絶望的な真摯な心地になっていた。

     二十

 周平は、二階の室と階下《した》の室との間を、しきりに往来《ゆきき》するようになった。二階に一人で寝転んでいるかと思うと、ふいに階下へ下りてきて、火のない長火鉢の前にぼんやり坐ったり、針仕事をしてる保子の前につっ立ったりした。保子や隆吉を相手に珍らしくいろんなことを饒舌ることもあった。かと思うと、俄に黙り込んだり、または二階へ上っていった。暫くするとまた階下へやって来た。滅多に外へは出なかった。――そういう自分自身を、彼は自ら意識した。そしては更に、投げやりの頼りない気持に陥っていった。どうしようという気は殆どなかった。どん底に落着いたような自棄的な心だけが、いやに真剣になっていた。
「少し外に出てごらんなさいな、朝晩はいい気持よ。」と保子はよく云った。
「ええ。」と周平は答えたがやはり出かけようともしなかった。
 保子は彼の眼の中を覗き込んだ。
「あなたはこの頃よっぽど変よ。私達の留守中に何かあったのね。こないだ泣いてたのもそのことでしょう。包まず云ってごらんなさいな。一人で考え込んでるよりも、云ってしまった方がさっぱりしていいものよ。」
「それほどのことじゃないんです。」と周平は答えた。
「じゃあなお云ったって差支ないでしょう。」
「でも今は云いたくありません。」
「そう。」そして保子は一寸間を置いて眉を挙げた。「だけど今にきっと云いたくなるわよ。もうそろそろなりかかってるんじゃないの。」
 周平は彼女の顔を眺めた。曇りのない輝いた二つの眼が、じっとこちらを覗いていた。ただ澄みきってるだけで、その底には何にも読み取れなかった。彼は自分の心が慴えてくるのを感じた。それが我ながら腑甲斐なかった。
「もう暫く、一人で考えていたいんです。」と彼は云った。「隆ちゃんの病気も殆んどなおったようですから、下宿に帰ろうかと思っています。」
 保子は眼を見張った。
「どうして急にそんなことを云い出すの。横田が帰ってくる迄居るつもりじゃなかったんですか。」
 それは保子一人できめてることだった。周平は曾てそんな約束をした覚えはなかった。然し彼は云い逆《さから》わなかった。また本当に下宿へ帰るつもりでもなかった。
「居てもいいんですけれど……。」と彼は口籠った。
「よければ居たらいいじゃないの。それに、あなたが帰ったら隆吉が淋しがるわよ。」そして彼女は言葉の調子をゆるめた。「不思議ねえ、あなたは別に愛想もないくせに妙に子供から好かれる所があるのね。こないだ隆吉がふいに、井上さんがいつまでも家にいてくれるといいなあ、と云い出したのよ。井上さんにじかに頼んでごらんなさい、と云っといたんですが、何かあなたに云いはしなくって?」
「本当ですか。」
 保子は微笑んだ。
「おかしな人ね。誰がそんなつまらない嘘を云うものですか。」
 周平は眼を見据えた。あの時のことを思い出した。隆吉に対して変に気を廻したのが、今になってみると、馬鹿げてるようなまた恥しいような気がした。その気持がまだおさまらないうちに、保子は正面から尋ねかけてきた。
「でも、あなたは隆吉をどう思って?」
 周平は顔を挙げた。が咄嗟に答えが出なかった。
 保子は直にたたみかけてきた。
「あなたは隆吉を余り好きじゃないわね。」
 周平はぎくりとした。それを更に押被《おっかぶ》せられた。
「あんなに慕ってるのに、どうして嫌いなんでしょう、変ね。」
 その直截な言葉は、殆んど抗弁の余地を与えないのを周平は感じた。それでいて、妙に彼の気持へぴたりとこなかった。彼は隆吉を嫌いではなかった。かと云って好きでもなかった。思い惑っていると、保子はまた云った。
「先《せん》にはそうでもなかったが、この頃隆吉に対するあなたの様子は変よ。一体どうしたというの?」
 じっと彼を見てるその眼には、非難の色は少しもなかった。却って、庇うような温情が現われていた。周平は眼をつぶった。それをまた開いた。
「私は隆ちゃんを嫌いじゃありません。」と彼は云った。「ただ妙に愛せられないんです。離れていると何だか可哀そうに思われてきて、胸に抱きしめてやりたいような気持になりますけれど、側に行くと、急に小憎らしい……というより、気味悪いよ
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